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1988年9月 1日 (木)

百円おばあちゃん

おばあちゃん

おばあちゃんが死んだ。夏の暑い盛りの日に、太陽に吸い込まれるように死んでいった。おばあちゃんのことを幼い頃“百円おばあちゃん”と呼んでいた。家に泊まりに来る度に百円をお小遣いにくれたからだ。百円はいつまでたっても百円だった。それでもとても嬉しかった。おばあちゃんが家に泊まった時は、寝る前に必ずお話を聞かせてくれた。それは、子供が春をさがしに行く話だった。色んな虫たちの家に行って尋ねるのだが一向に分からない。諦めて家に帰るとおばあちゃんが暖かいミルクを用意して待っている。子どもはそこで、実はおばあちゃんが春なんだとわかるという話だった。いい話しだった。ところがいつまでたっても、何回聞いてもその話ししかしなかった。それでもとても嬉しかった。おばあちゃんは僕が神学生の時によく手紙をくれた。白い封筒に白い便箋、震えた字で数行書いてある。内容は何回来ても同じ内容だった。それでもとても嬉しかった。おばあちゃんは神さまが好きだった。だから僕に希望を与えてくれた。生きて希望を与えてくれた人は、死んでも希望を与えてくれる。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)とイエズスさまはそう言われた。おばあちゃんは生きている。

「光線」 カトリック時報(1988/9/1号)

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