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1996年11月16日 (土)

だちづくり

みなさん、こんにちは。私は今、神戸市長田区にある鷹取教会にいます。去年の1月17日に大震災で潰れて燃えてしまった教会です。教会の建物は無くなってしまいましたが、はじめて教会になったように思いました。なぜ、そう思ったのでしょうか。

それは、教会にたくさんの人たちが毎日出入りするようになったからです。町の人たちやボランティアの人たちです。もちろん、教会の人たちもです。今まではそうではありませんでした。広い教会の敷地の中に普段人はいません。日曜日に信徒の人たちだけが利用するだけでした。なんともったいない事でしょう。出会いの場所を探している人たちはいっぱいいるというのに。

さて、集まった人たちの目的は何でしょうか。それは‘まちづくり’です。じゃ、どんな‘まちづくり’をしようとしているのでしょうか。それは、一言でいうと‘ともだちづくり’です。

‘まち’にはいろんな人たちが住んでいます。でも普段はあまり出会いがありません。ここの教会がある‘まち’にはお年寄がたくさんいます。外国人もたくさんいます。そして、障害を持った人たちもいます。でも、普段は‘まち’の中であまり出会うことがありません。出会いがなければ、‘ともだち’にもなれません。‘ともだち’になれなかったら、‘まちづくり’なんてできません。

教会が「まちづくり」の為の出会いの場となる。‘まち’の中で忘れ去られてしまっている人たちと出会っていく。信徒でなくても同じ目的を持つ人たちも集まる所。それが本来の教会ではないでしょうか。

それを教会で使っている言葉でいうと、福音宣教であり、神の国の建設です。教会に日曜日ミサに来る信徒の人たちにとって教会は信仰の道しるべです。それぞれの家庭や個人が、自分が住んでいる所で‘ともだちづくり’をとおして‘まちづくり’に働きかける中で、信仰を持つ喜びが生まれるのではないでしょうか。

神田裕
テレフォン・サービス (1996/11/16)

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