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1998年4月

1998年4月21日 (火)

異国情緒あふれる地域社会へ

異国情緒あふれる観光都市として名高い神戸。昔からたくさんの外国人が住み、まさに国際色豊かな街として歩んできた。そして外交、貿易など港町として発展してきたこの街は国際都市とも呼ばれてきた。

そんな神戸を自然は襲った。阪神淡路大震災である。ほんの僅か十数秒の地の揺れが神戸の街を破壊した。お洒落な街は一瞬の内に瓦礫の街へと化してしまった。多くの人が犠牲になった。家を無くした人々も数えられない。日本人も外国人も皆同じように被害にあった。地震の被害には国籍の差はなかった。でもそれは本当かな。

震災にあったその日、人々は避難場へ逃げ込んだ。しかし避難場という言葉が分からずウロウロする外国人の姿があった。標識も漢字での表記だけなので読めなかった。行政から出される大切な情報もすべて日本語だった。日本に住んでいるのにどうして日本語ができないのかと平気で言う災害担当官もいた。仲間が集まって食べ物を分け合っていたら、それをどこから盗んだんだと言われた外国人たちがいた。外国人が被災地で火を付けてまわっていると言うデマも一時あった。

このような外国人に対する偏見は震災後4年目を迎えた今でも変わらない。と言うより震災以前からの問題がそのまま残っていると考えた方がいい。外国人たちと共に復興の景気付けにと短期の屋台村を計画した時にも治安が悪くなると地元に反対された。自力で民間の住宅に入ろうとしても外国人お断りの入居拒否はあとを絶たない。職業安定所での就職斡旋は外国人には皆無に等しい。国際都市と名がつく神戸であってもここは外国人にとってはとても住みにくいところだと震災後あらためて知った。

地域社会における問題だけでなくもっと大切な生命に関する問題もある。国は医療に関しては健康保険で対応した。保険証を持っている者は一部負担金も免除され治療費などは助かった。しかし保険証を持てない短期滞在の外国人たちは地震関連での入院費をすべて自費で支払わなければならなかった。それでは災害救助法でと思うがそれもダメ。救護所の設置が間に合わず直接病院へ駆けつけた者は対象にならないらしい。何の為の災害救助法なのか。また長年神戸に住んでいてもビザの期限が少しでも過ぎていれば死亡した者への弔慰金も出なかった。税金は同じように払っているのに生命の保証はされていない。

そんな中、外国人たちの支援をしようと集まってきた仲間たちがいた。もちろん多国籍。そして新しい動きが始まった。「被災ベトナム人救援連絡会(現在:神戸定住外国人支援センター)」は震災後にできた最初の動きで、外国人への震災情報の伝達を主な活動内容とした。そしてその活動の中から今度は電波に乗せて情報伝達をとコミュニティーFM放送局「FMわいわい」が誕生し多言語で神戸の街にメッセージを送っている。「NGO外国人救援ネット」は震災時に発生した外国人の医療費の問題から始まり、今は電話ホットラインで外国人の生活相談窓口を開いている。以上これらはソフト面での支援活動である。「神戸アジアタウン推進協議会」はハード面の支援活動を目指す。アジアの人たちが多い神戸・長田をアジアの街にしようと活動する。街の案内板を多言語標示にするプロジェクトもその一つだ。

このように見てみると震災後にできた外国人支援のネットワークは4年目に入り「救援」から<まちづくり>へと移り変わっている。外国人が直面するさまざまな問題は「かわいそうな外国人への手助け」ではなく、同じ市民として共につくりあげてゆく多文化共生の<まちづくり>を通して初めて解決の糸口が見つけられる。違いを共有することは豊かさを生むことだ。外国人と共に同じ仲間として暮らして行くことによって成長した豊かな社会を築くことができる。そこにはもう外国人という言葉はいらない。

異国情緒あふれる観光都市は異国情緒あふれる地域社会となって始めて国際都市となる。自然災害である地震には負けたけど、新しいものを創り出して行くことによって地震に勝ってゆきたいと思う。

神田裕
朝日新聞・論壇 (1998/04/21)

1998年4月 1日 (水)

宗教者による神戸メッセージ

震災からちょうど3年に当たる1998年1月17日に神戸から一つのメッセージが発せられた。「いのり 追悼と新生 - 宗教者による神戸メッセージ」。それは、震災後の神戸で出会った仲間との出会いそのものが作り出したメッセージだ。

《突如襲った阪神・淡路大震災は、私たちに未曾有の被害と絶望をもたらしました。犠牲になられた方々への無念は尽きることがありません。それと同時に、残された私たちの日常も苦渋に満ちたものでした。生きることの苦しさを嫌というほど味わいました。しかし私たちは、それにもめげず微かな希望に支えられて、これまで生きてきました。その希望の源になったものは何か。それは自分の隣にいる人々との出会いそのものでした》

その日はまるで悪夢でも見ているようだった。作られたものは尽く潰され、自然に対する人間の無力とこの世の儚さを知った。一瞬のうちに6千数百人もの生命が奪われ、生き残ったものたちは裸足のままで布団や毛布をまとって逃げ惑った。そんな中でも近所の人たちは生き埋めになっている者や病院のベッドの上で動けなかった者の救出を即座にしていた。それは自然な行動でした。しかしそんな自然なことさえもしなかった自分がいた。しなかったというより出来なかった。それは出会いが今までなかったからだった。教会の中でしか出会いがなかったからだ。だから動けなかった。震災後、まちづくり協議会の中に入れてもらった。少しずつ地域のことが分かってきた。自分の家づくりのことより町づくりに力を注ぐ者たちがいた。こんなにも魅力的な人々がこの地域にいたなんてことを知らなかった。今まで出会っていなかったことが残念でならなかった。

《私たちは、不思議な体験をしました.成す術が分からない、そんなさ中にもお互い助け合うことができました。優しく声をかけることもできました。そこには普段、人と人とを隔てている壁のようなものは無くなっていました。隣との壁、国籍の壁、そして宗教の壁です。お互いが助け合うという自然にできた優しさが、そんな壁をも打ち壊したのです。そこには生きるために国籍や宗教の別は必要ありませんでした。生きていることそのものがすべてでした》

すべてを失って呆然と立ち尽くす中では今を生きるのが精一杯だった。でも何故か素直になれた。優しくもなれた。食べ物や水を分け合った。家が大丈夫だった何人かの人から連絡があった。「家を失った人に一室を提供します」と。持っているものを分け合おうと自然に思えた。自分だけの物は要らないなとみんなそう思った。今まで要らない物をいっぱい持ち過ぎていたんだなということも知った。
国籍や宗教を超えての救援活動が始まった。地域の外国人が企画した炊き出しに日本人が食べにきていた。イスラム教の人たちが教会を出入りしていた。自然だった。また、動いたのは地元地域の人たちだけではなかった。全国からたくさんの人たちが駆けつけてくれた。被災地の中ではボランティアも被災者も同じだった。すべてが肩書きを捨て、一人の人間として生きていた。そこで出会った仲間は数え切れない。人生を2,3回経験したぐらいの仲間に出会ったようだ。

《しかし、それは束の間の出来事でした。時がたつにしたがって街は少しずつ復興し、それと同時に人と人とを隔てている壁も戻ってきました。家族を越え、地域を越え、国籍を越え、そして宗教を越えて声を掛け合うことが難しくなってきました。つまり普段に少しずつ戻ってきたのです》

暫くたつと、なぜ信者を優先しないのかという人もいた。教会に所属している意味がないとまで言う。「いつまで教会の中にボランティアがいるのか」と訝る人も中には出てきた。今、現実に何が起こっているのか、何が問題なのかということを被災地に居ながらも共有できない人たちがいた。
少し余裕が出てくると隣のことも気になりだした。被害の優劣の差が気になりだした。自分だけが惨めだと思い始めたりもする。僻みや嫉妬に押しつぶされそうになった。

《私たちすべての願いは地震から早<立ち直り、まちが復興することです。しかし今、復興という言葉にだんだんと取り残されてゆ<人々がいます。私たちは決してそんな仲間たちのことを忘れてはなリません。最後のー人が震災から立ち直るまで地震は終わらないからです》

三年が過ぎ去ってしまった今、街の玄関はもうほとんど地震の傷痕は残っていない。しかし、居間はまだまだだ。元居たところへ戻りたいという夢はなかなか叶わない。もしかしたらこのまま一生を終えてしまうのだろうかという不安がよぎる。仮設住宅では次の目処がたった人とまだたたない人との間で壁が出来始めた。災害復興住宅に当たらない人は悔しくて、当たった人は申し訳なくて、互いに話も出来なくなってしまった。地域型仮設で共同生活をしてきた一人暮らしの老人たちも事情が複雑だ。当たらない人よりも当たった人のほうが不安でいっぱいだ。心配で心配で夜も眠れず、しまいには入院してしまう。また孤独な一人暮らしが始まるからだ。一人一人の体と心を傷つけてしまった地震はなかなか終わらない。

《私たちは宗教者として、今一度この3年を振り返り心を合わせたいと思います。自分が責任を持つ教団の利益や信徒への奉仕にのみ留まってはいなかったか、そして世に開かれた宗教の働きを、自らの生き方として担い得たかを、問い直すことから始めなければなりません。そこからひとりひとりが壁を取り払い、優しく声をかけ合い、わかち合えるひとづくり、まちづくりを目指してその働き(教化や布教、宣教)を担ってゆかねばならないと、こころざします。さらにまちが復興し、単に普段に戻ることを願うのではなく、地震の中で体験した不思議な出来事に希望をおき、新しい世を創ってゆくことを願いそしていのります。それが宗教者としての共通の使命と考え、そのことが犠牲になちれた方々への追悼となり残された人々の新生となると固く信じるからです》

人の生きる道や人生を説く宗教教団は何をして来たのだろう。組織力を使って物を集めた。それを業績として自らを称える。ただそれだけだ。やっていることは企業となにも変わりはしない。それを配りながら、今こそ宗教は大切とばかりに宣伝や勧誘も繰り返した。「我が身を捨てて隣人を愛する」ことの出来た教団はキリスト教を含めてここには存在しなかった。いくら宗教といえども、組織は一人一人の人間に勝つことは出来ないと思った。被災者をこれまで支えてきたのは宗教や行政の組織ではなく、一人一人の隣に居る一人一人の人間だった。個々の出会いにはエネルギーがありそして夢が育って行く。組織はそれを応援するだけでいい。ところが邪魔をする。一人一人の人間を導くのが宗教教団だという幻想を持っているからそうなるのだろう。被災地で一人一人が持った優しさは宗教教団の改心(回心)へとつながるのだろうか。それがなければ新しい世は創られて行きはしない。

《市民の皆さん、宗教を持つことは、一人一人の生き方が分けへだてられるのではなく、宗教の壁を越えて、つながり合いわかち合うことなのです。自由な選択の中で人がよりよく生きる道を探す希望の宝箱を持つことなのです。また宗教者は、そのことを教えるだけの教師ではなく、共に考え共に歩む人生の仲問です。もし宗教を持つことがー人一人の心を狭くしたり、他を排斥したり、権力や名誉に走るようなものであるならば、残念なことです。もしそうなら、それはそれぞれの宗教に携わっている私たち宗教者が、宗教による壁の中で、それぞれのしきたり等に心を奪われているところに問題があるようです。それを本来の宗教として私たちは理解したくありません。私たち宗教者も完全ではありません。被災地にあって復興を創ろうとするすべての人々と共に、震災を生きる者として、私たちも一つになりたいと願います。地震に負けないで、勇気を持って新しい世を一緒につくってゆきませんか》

宗教にプライドを持ちたいと思う。宗教教団という組織に関わる私たち一人一人が、宗教を持たないで社会の悪とたたかっている人々に遅れを取らないようにしっかりと信仰を生きたいですね。

教団や教派を越えて出会った仲間は不思議だ。相手を知り、理解し、親しくなって行けば行くほど、自分が拘って信仰している宗教を自分の中でもっと大切にしようと思ってしまう。関われば関わる程それぞれが、もっと立派な宮司さんに、もっと素適なお坊さんに、もっと魅力のある牧師さんに、そしてもっと逞しい神父さんになってゆきそうだ。

神田裕
「声」誌 (1998/04)

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