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1999年8月

1999年8月 5日 (木)

990805 マイアミ到着

無事にマイアミに到着しました。ボゴタから約3時間半。
現地時間で水曜日午後3時(日本時間木曜日午前4時)に到着しました。
マイアミとボゴタは1時間の時差。

空港を出ることができたのは4時を回っていました。
心配していたチェックはなかったものの入国の手続きに長蛇の列。
とても時間がかかりました。

入国のチェックはなんかこわそうなお姉さん。
「ハーィ」と愛想をかましたんだけれど、無表情。
でも適当にやり取りしていたら通してくれた。

列の最後だったのでバッグを取りに行ったらもう誰もいない。
ベルトコンベアー(?)も回っておらず
私のカバンだけが寂しく地べたに転がっていた。

カバンを見たらなんと取っ手が壊れておりヒモでカバンが縛られていた。
もしやと思ったが中は大丈夫だった。

カバンを持って出ようとしたのだけれど
中身をチェックされるどころか番号の照合さえもされなかった。
つまり誰か別の人が持っていっても分からないというわけだ。
カバンのチェックよりも恐ろしい。

ホテルに着いたらぐったり。
8時ごろ起き出してホットドッグとバナナを食べて
メールを書いています。

ホテルの部屋は広~い。
ベッドもダブルサイズ。
一人でいるのがもったいな~い。

明日は朝5時に起きて
午前7時45分(日本時間木曜日午後8時45分)発の飛行機で
ダラス経由(木曜日午前11時25分)(日本時間金曜日午前0時45分発)で帰ります。

ダラスからが長い。約14時間。
着いたときには体がダラース。
イスの形のままで帰るかもね。

おやすみなさい。

PS:マイアミのココナッツ・グローブの靴屋さんで
ユニークなものを見つけました。

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面白いというか、ビックリするというか、あまり見たくないというか、、、
どう表現すればいいのか・・・。
あっ、、このお姉さんは違いますよ。

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PS:
写真はデジカメで500枚ほど。
使い捨てカメラ(パノラマもいける)で60枚ほどうつしてきました。
被災地の様子やプロジェクトの場所。コロンビアの別の顔など。
写真を見るだけで雰囲気をつかんでもらえるのではと思います。
報告会をお楽しみに。
http://www.pure.ne.jp/~ngo/erc/1995-1999/199901crb.html

1999年8月 4日 (水)

990804 コロンビアよ さよなら

みなさん、お疲れさま。
以上を持ちまして
コロンビアからの報告を終わります。

未知の地へ行く
怖さから始まった旅(視察)でしたが
多くの人に出会え、喜びを持って帰ることができます。
多くの人たちにお世話になったことを感謝します。

今から寝て
今日(水曜日)の朝10:25(日本時間 木曜日午前0:25)
の飛行機でエルドラド空港からマイアミへ向かいます。

マイアミで一泊して日本には金曜日の午後に着く予定です。
マイアミからもう一度メールを送ることができると思います。

おやすみなさい。

PS 1:
ふと思いついてインターネットを通じてFMYYを聞いてみました。
聞こえるじゃないですか。わぁ、感激です。
地球の反対側の神戸の生の声が聞こえるんです。
それもはっきりと。
すごいなぁ。

PS 2:
約束しましたように抽選で3名の方にプレゼントです。
品物は写真にあるように
「MUSEO DEL ORO (金の博物館)」のメダルです。
今回のコロンビア行きの感想を書いてメールを送ってください。
(これはもう終了)

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コロンビアでの食べ物はそんなに苦労しませんでした。
写真はZIPAQUIRA(ジパキラ)という町で
レストランに入って食べた食事です。 

AJIACO(アヒヤコ)というのですがいわゆるシチューですね。
3種類のジャガイモととうもろこし、それに(苦手な)鶏肉が入っていました。

AJIACO01

ライスをたのんだのですが向こうのご飯はパサパサで
コンドルが飛んで行きます?(エル・コンドル・パサ)

AJIACO02

ご飯にアボガドがついてくるのが何とも言えませんでした。
フィリピンなどでは砂糖をかけ果物として食べるようですが
コロンビアでは好みによって塩をかけ野菜として食べるようです。

特に食べ物に困ったことはありませんでしたが
帰ったら「うどん」が食べた~い。

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コロンビアで日本といえば写真。
写真屋の名前も「FOTO JAPON (フォト・ハポン)」
日本人が経営しているのかと思えばそうではなく
社長が日本びいきのひとらしい。
ユニフォームもハッピのようなものを着ていた。

photojapon2

1999年8月 3日 (火)

990803 シパキラ 塩の大聖堂

ZIPAQUIRA(シパキラ)というところに連れて行ってもらった。

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そこに「塩の大聖堂」がある。
塩で出来た大聖堂?
意味がまったく分からなかったが現地へ行って納得。

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岩塩の採取で出来た洞窟のことだった。
とにかく入ってみた。

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延々と暗い通路を進んでいく。
壁はもちろんすべて塩の岩だ。

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暗くて上手く撮影できないが雰囲気は分かるかな?
途中ところどころに小部屋があり祈れるようになっている。

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奥へ奥へ進んで行く途中にも
いくつもの枝分かれした洞窟が続いていた。
ひたすら奥へ、、、下へ、、、
すると、、、でてきた、、、大聖堂。
おおき~い、、、ふか~い。

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ところどころに天使の像などが置かれている。

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告解場もあったぞぉ。

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この洞窟の大きさは半端ではなかった。
実際に公開されているのはこれで一部だ。
ここで多くの人たちが働いていた(働かされていた)んだなぁ。

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990803 コーヒー

コロンビアといえばコーヒー。
コーヒーは元々はアフリカのエチオピアが産地だ。
南米にはなかったのだがイエズス会の宣教師が持ち込んだのがきっかけ。

アルメニアにある「PARQUE NACIONAL DEL CAFE」(コーヒー国立公園)へ行った。
見渡す限りのコーヒー畑が広がっていた。
コーヒーの歴史を紹介し、作り方も紹介されていた。
コーヒー畑を歩いて何種類ものコーヒーがあった。

コーヒー畑にはバナナの木が所々に植えられている。
直接太陽に当たらないほうが好い種類の木の横に植えられているというわけだ。

コーヒーの木を生まれて始めて目にしたわけだが、
高さは写真にあるように2メートルほどで、実はやはり写真のように並んでいる。

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実が赤くなれば収穫して行くのだが
収穫を機械化することができずすべて手作業でして行かなければならない。
大変な作業だ。

アルメニアの人たちの手を見ることはできなかったが
きっと手にマメがたくさんできているのだろう。
コーヒー豆でマメを作るわけだ。
それほどマメな作業なのだ。

なぜ、機械化できないのか?
お金がかかりすぎるからか?

そうではなく、写真を見れば分かるように
実が赤くなって行くのが枝の元からだからだそうだ。

アルメニアは地震で大被害を被ってしまった。
復興への道のりはまだまだだがもともと豊かな地域なので
残された人々の復興への希望は閉ざされることはないだろうと思う。
もちろん神戸の比にはならないほど貧しいが。

それに比べ、ボゴタは大変だ。
失業率19%だという。
その中でもあのエルサレムに住んでいる人たち。
彼らの復興への道は閉ざされている。

990803 MUSEO DEL ORO

ボゴタ市内の博物館 「MUSEO DEL ORO (金の博物館)」へ行った。

中は撮影禁止だが
この人形だけは撮ってもよかったので
これだけお見せします。

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何千年も前の武士の姿です。
金の武具をつけていますが、こんなんほとんど裸やんなぁ。
お腹突かれたら終わりやん。
ヒモ切れたらパンツ(?)脱げるやん。
と、しょうむないことにすぐこだわってしまうのですが・・・。

とにかくすごい財宝の数々。
警備が大変で博物館自体が金庫の中だ。

コロンビアはマヤやアステカの文化と同じような文化を持っていた。
金とエメラルドをふんだんに使って数々の装飾品が作られている。
コロンビアの中でもいくつもの地域に分かれていて、
それぞれに特徴のある文化を育てている。

ヨーロッパの国々が南米を目指し、
支配していった理由の一端をうかがうことができた。

博物館にきている人々は
日曜日だったので子どもたちでにぎわっていた。
みんなペンを持ってノートに記入していた。
授業のレポートを書いていたんですね。
はじめてここで日本人にも会った。
マツダの社員だった。

コロンビアといえば花の栽培と輸出も盛んだ。
オランダに次ぐほどだそうだ。
5月になればカーネーションの輸出が多くなる。
もちろん日本へも。

母の日にお母さんに送る花はコロンビアから来てたんだぁ。

990803 アブラザール協会

神戸からの支援金はセルビビエンダを通して
ABRAZAR(アブラザール)協会のプロジェクトに使ってもらうことになった。

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アブラザールはアルメニアのあるキンディオ州において
障害者のケアーをしているところである。

1990年代のはじめから障害者のための歯科治療をすることから始まった。
というのは代表のJARAMILLO(ハラミリョ)は歯科医師であって
自分の専門をボランティアですることによってこれまでNGO的な活動をやってきた。
障害を持った子どもたちが彼のテーマであるようだが
それは自分の子どもが障害を持って生まれたことに始まる。

アルメニアにいる障害を持った24歳以下の子どもたちは2,800人を数える。
そのうち地震の結果障害を持つようになった子どもたちは10%だという。
障害者の施設もいくつか崩壊している。

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彼らは地域のいろいろな場所に小さな部屋を無料で借りながら活動を続けており
震災後も仮設住宅で歯科のプログラムを中心にリーダーシップを取ってきた。

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今回、地震を期に、
ひとつのセンターをCALARCA(カラルカ)に建てようとしている。
アルメニアの隣町だ。

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「障害者のための芸術と健康センター」と題されているこの施設は
運動系障害、知覚障害、知能障害、てんかんなど
(上記の言葉に問題はないですか?)
サービスを他で受けることができない人を対象に
健康管理と芸術の促進の観点からケアーを試みるという。

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彼はアルメニア周辺の施設には全部に通じておりいろいろと案内された。

この建物をつくるに当たってセルビビエンダが関わりを持つことになった
というわけであり、その建設費用に神戸からの支援金をあてると言うわけだ。
土地は確保されている。

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ランニングコストに関しては別で考えているようだ。

これでとりあえず私の仕事は終わりです。

皆さんいかがでしょうか。
不充分なところは多々あると思いますが
何か不足のところがあればおっしゃってください。

1999年8月 2日 (月)

990802 地図

大体ですが、
赤い点をつけたところは、サンタ・フェ・デ・ボゴタ。
青い点はアルメニア。
黒い点はアンティオキアです。

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990802 ゲリラのこと

ここのスラム街(村)にくる理由の一つにゲリラが怖くてと言うものがあったが
それはコロンビアに来る前からの自分にとっての心配事のひとつでもあった。

そこでゲリラについて聞いてみることにした。

コロンビアのゲリラは大きく分けて三つある。
左翼系のゲリラはFARCとELNの二つと
右翼系のゲリラのPARAMILITARである。

FARCは共産党とのつながりが強く1950年代から活動を始めている。
リーダーは農民で実際に戦っている人たちは15,6歳の若者たちである。
12歳の女の子もいる。
みんな貧しさの中でゲリラに入ってゆく。ゲリラに入ると給料が出るからである。
彼らの財源はおもに麻薬である。

しかし、ゲリラと麻薬は直接には関係ない。
麻薬にはちゃんと麻薬組織(コロンビア・マフィア)がある。

麻薬組織は貧しい農民たちにコカの葉を栽培させる。
それを売ることで農民たちは生活費をかせぐ。
それを工場で精錬してアメリカなどへ輸出しているわけだが
その畑を狙って政府が攻撃を仕掛けてくる。
つまり農薬を蒔いてしまうわけだ。
そこでゲリラたちがその防御に使われるわけだ。

ELNはキューバ思想を持ったゲリラであり1960年代に組織された。
元カトリックの神父がたくさんいた。
当時キューバの革命が成功し
この思想によってラテン・アメリカの貧富の差をがなくすことができるだろうと
おもに大卒の知識人や中産階級の人たちで組織されている。
彼らの財源はおもに人質の身代金である。

PARAMILITARは1980年代に組織された。
リーダーはカスタニョという人物だが
彼の父はFARCに誘拐され殺されるという経験を持つ。
いわゆる左翼ゲリラに対する自衛団のゲリラだ。
バックアップは大農園の地主たちである。

FARCはコロンビアの南部に
ELNはコロンビアの北部に
そしてそのまた北部にPARAMILITARのゲリラたちがいる。
そのゲリラたちはボゴタのような都会にも進出してきている。

今朝(8/2 月曜日)の朝刊のトップに昨日の事件が載っていました。
ゲリラのテロです。場所はアンティオキアで死者は19名出たそうです。
写真で見えるようにひとつの町が破壊されています。

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ここは町ですが
これじゃエルセレムに逃げてくるわなと思った。
エルサレムはゲリラに関しては安全です。

990802 エルサレム

ボゴタは南に行くほど貧しくなる。
一番南のエルサレム(ユダヤのエルサレムに因んであるそうだ)
という町にもセルビビエンダの事務所があったので行ってみた。

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ここでは家を建てるというより
材料を提供するプロジェクトが組まれてある。

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窓や扉、瓦やタンクなどそれぞれに値段が付けられていて
安く提供されている。

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住民はアンケートに記入することから始める。書けない人もいる。
400円ずつ毎月支払ってゆく。もちろん利子はつかない。

もともとセルビビエンダがここに入ってきたのはインフラ整備のためだった。
特に水が少なく行政に交渉を重ねようやく少しずつ整ってきた。
タンクはそのためのものである。

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エルサレムはいわゆるスラム街だ。
土地所有の証明がないのに勝手に住んでいる人々がたくさんいる。
聞くところによると5年たてば居住権が発生し自分の家を建てられるらしい。

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このボゴタのような都会のスラム街になぜ来るか。
田舎からやってくる人たちが多いのだが
最初は路上生活のように始まってだんだんとここへやって来るのだそうだ。
田舎から出てくる理由はゲリラが怖くてが一番だそうだ。
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セルビビエンダはいくつかの家作りを支援してきているが
今支援しようとしているひとつの家族を紹介する。
この家はレンガではなくトタンを貼り付けただけの貧しいものだ。
セルビビエンダはこのように何らかのかたちで
形になったところを支援の対象にしている。
土地だけあって何も建てていなければ支援の対象にはならないそうだ。

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この家を訪問した。
中に入ると台所とベッドが同じところにあり
広さは4畳半といったところだ。

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ここに病気のおばあさんと子どもたち3人と
今は働きに出ているお母さんの5人家族で住んでいる。

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お父さんは?

このあたりの問題のひとつに
父親のいない母子家庭の問題がある。
父親を知らない子どもたちが多い。

手を出したら笑顔で握手してくれた。
どこの国でもそうだが子どもはかわいい。
思わず抱きしめてしまった。

この子どもたちはもう少し大きくなると街へ出て、
路上で果物など手に売り歩くことになる。
お母さんを助けるためだ。
そう思うとなんだか・・・。

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祈ることしかできないというのは辛いことですね。

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990802 セルビビエンダ

今日(月曜)は
SERVIVIENDA(セルビビエンダ)を訪問した。
今回のコロンビア行きの目的だ。

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SERVIVIENDAは建物を提供するNGOだ。
安い建物を提供している。
色んなサンプルがおいてあり
住民たちはここへ来て自分の収入に合った建物を探す。

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SERVIVIENDAとはSER(サービス・人間)+VIVIENDA(家族)で
建物を建てる目的はコミュニティーを形成することである。
設立以来25年がたちこれまでに8万件を提供してきた。
家だけでなく学校や教会も建ててきた。

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写真のサンプルにあるような家が
大体数十万円でできてしまう。

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ここで交渉によって家を建てるめどが立てば
人々は毎月支払う分が記入されたチケットをもらう。
数年かけて支払いを済ますことになる。
(写真はそのチケットと支払いカウンター)

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利子はつかない。
支払いが滞っても取り上げられることはない。
そのあたりが企業と違うところだ。

建築業界とトラブルは起こさないのかと尋ねてみた。
答えは「ノー」。
企業はこのような安いものはビジネスにならないので邪魔はしない。
ここにやってくる人々を相手にしない、ということだった。

SERVIVIENDAは社会的に認められている。

セルビビエンダの前身はチリにあるオガルデ・クリストというNGOだ。
(現在も存在している)
1952年にカトリックのイエズス会の宣教師が創めたらしい。

その精神を受け継いだセルビビエンダは1974年に創設。
現在コロンビアのほかに
ニカラグア、ホンジュラス、エクアドル、ペルー、ドミニカ
の6カ国で活動している。

コロンビアには4つの事務所がある。

驚くことに、ここの本部にはなんと60人が有給で働いている。
コロンビア全体では180人のスタッフが働いている。

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自分たちの工場や倉庫も持っており建築材料をすべて自前でそろえている。

企業とどこが違うのかと意地悪な質問をしてみた。
答えは「ロビンフット」だと言った。

ピンとこなかったがやり方や目的が違う。
自分たちの利益のためにやっていない、
その人に合ったものを提供する、といったところか。

写真はセルビビエンダのそれぞれのスペシャリストたちの会議だ。
どうすれば住宅の問題が解決するかなどの知恵を出し合っていた。

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自分の夢と人生をかけた仕事として関わる。
これがNGOなんだなとあらためて思った。
空いた時間にちょっとするボランティアとは
わけが違うなと思った。

1970年代まではセルビビエンダも
ボランティアだったそうだ。

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1999年8月 1日 (日)

990801 教会

あった、あった。鷹取教会と同じようなのが。もう、うれしくなってしまった。
テントで野外でミサをしてるみたいだ。

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でも、違うことがひとつ。そう、椅子が違う。

この違いはたかとりとアルメニアの違いを表している。
つまり神戸にあってアルメニアになかったもの。
いったいなんでしょう?

そう。火事です。

アルメニアはほとんどが煉瓦造りなので火事はなかった。
それで教会の椅子は残っていたのだろう(推測)。
鷹取教会は燃えてしまったので
中のものまですっからかんになってしまっていた。

アルメニアの地震は1月の終わり。時期的にはほぼ同じ。
鷹取教会は9月17日のペーパードームの完成までテントだった。
さて、ここの教会はどうなるのかな。

ちょっと教会のことですみませんが、

大阪の教会(大阪教区)とアルメニアの教会(アルメニア教区)
の間で何か姉妹関係でも結んで交流でもできればいいなぁと
そんなことも何処か頭の隅っこに置きながら、
アルメニアの教会(アルメニア教区)のことを尋ねてみた。
教会はこの地震でどのような活動をしているのかと。

答えは簡単。
ひとこと、「何もしていない」

「何もしていないって、全然何も?」
「救援対策などは何も考えていないです」
「えっ、こんなに被害があるのに」
「ええ、司教が消極的で」
「ここはカトリックの国やろぉ!」
とまぁ、こんな感じでした。

「あほかぁ、おまえらはぁ。何考えとんじゃ!」
と下品な言葉は控えましたがガッカリです。

カトリックの国(南米なんかはほとんど)で災害があった時、
NGOが窓口としてまず教会を探しているが
たいがい教会は何もしないか
教会に来ている人だけに送った物資を配っているとかよく噂を耳にする。
今回もそうみたいだ。

事情(貧しさの度合いなど)が違うのかもしれないが
教会ルートでお金や物資を送っても何にも役にも立たないことがよく分かった。
教会の会計にそのまま入ってしまいそうだ。
教会にお金を送らんでもええでぇ。
NGOに期待しょう。

ところで、今日は日曜日。
近くの教会でミサをした。(ボゴタ)
150人ぐらいの小さな教会だ。

説教もした。もちろん通訳つきで。
「日本から来ました。コロンビアのちょうど反対側にあります。
小さいときにスコップで地べたを掘りながら
ずっと掘っていったらどうなるんやろと思っていました。
今、分かりました。そして実現しました。
小さい頃の疑問は皆さんに出会えたことで今解決しました。
コロンビアにきたんです・・・・・
でも、飛行機できましたが。」
といったら、何故かウケて拍手が起こった。

そして神戸の地震のこと
そして神戸のみんなの心がアルメニアへつないだこと
などを話した。

最後に、
「ひとつだけ言葉を覚えました。
それは GRACIAS(グラシアス)。
日本語では ありがとう といいます。
とてもいい言葉です。
どうぞ記念に覚えてください。」と締めくくった。

ミサが終わった。
最後の歌が流れて祭壇から去ろうとしたとき
会衆席から4歳位ぐらいの小さな男の子がふたり
走ってそばによってきて服をつかみ
そして「ありがと」といってくれた。

突然のことでビックリしたが
涙が出るぐらい、すごくうれしかった。
コロンビアにきてよかったとおもった。
GRACIAS!!

今日はいい夢が見れそうだ。
おやすみなさい。

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