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2006年6月

2006年6月28日 (水)

取材

いまだにキリスト像を取材しにきてるところがある。ある意味、震災のシンボルにもなってしまったので仕方のないことだし、取り上げてもらうのは自由なことだが、これまで同じ事を何十回、いや何百回聞かれてきたことだろう。「奇跡のキリスト像」として取り上げられるのを拒みつつ、偶像崇拝的な信仰の対象とされるのを拒みつつ、「多文化共生のシンボル」としての意味づけをこれまでにも話してきた。しかし、何回も裏切られてきた。もうキリスト像に関する取材は自分にはトラウマのようになってしまっている。取材に来られても冷たく応対してしまう。

キリスト像のことだけでない。震災のこともそうだ。勿論こちらから伝えたいこともあるし、伝えなければならないとも思うのだが、突然にやってこられて、いきなり、「震災のときはどうでしたか?」なんて聞かれてしまうと、申し訳ないことだがため息をついてしまう。自分のことを腹をわって話せるようになるのは友人でも時間がかかることだが、取材の場合は短時間で合理的に誘導尋問のように質問が飛んでくる。そんなことがあった日には何か後で空しさしか残らない。そんなことは続いてきた。。。

1年ほど前に、それでも電話で取材の申し込みがあって、なぜかしら受けてしまった。○○新聞社で、これまで脅迫めいた取材までされて嫌な新聞社だったが、それは記者の人格の問題でもある。今回は話しの持って行き方がよっぽど上手かったのだろう。受けてもいいと思ったし、久しぶりに気持ちよく話せたし、気が付いたら2,3時間も話してたと思う。あるコラムに乗せるので写真も撮りたいからとまた別の日にもやってきて時間を割いた。ところが、1年たっても掲載された気配はない。ボツになったのならボツになったで何の問題もないことだが、それでも一言いうべきではないのだろうか。記者にとってはビジネスの時間だが、取材を受ける側は生活の時間を割いているのだから。

実はこのブログを書き始めたのは、そんなこともきっかけだった。毎回同じ事を聞かれるのはやっぱり辛いので、いっそのこと、コツコツと自分でたかとりのことを書いていこうと思ったからだ。その上で、私も気が付かなかったことなどでコメントがあったり取材があったりすると逆にとても嬉しい。

ところが、昨日の△△新聞社の電話取材は違った。キリスト像の取材で、このブログのある1行を私のコメントとして載せてもいいかということだった。もちろん断った。たった1行でも全体があっての1行だ。1行だけ一人歩きしてしまったらどういう結果になるかは目に見えている。今までもそうだが、その人自身を取材していると言うよりも、こちらの口にした言葉の都合のいいところだけを材料にして自分の作品を作ってるって取材が何と多いことか。世の中には言葉にしたくても言葉にならないものがたくさんある。それを言葉にするのがメディアの役目だと思うのだが。

2006年6月23日 (金)

060623 トイレ事情

22日はたかとり建築チームで勉強会(打合せ)をした。
建物の全体像をまだまだみんな理解していないからだ。
もうすでに基礎工事が始まっているので大きな変更はできないが
細かいところで調整ができていないところをみんなでチェックチェック!

空調、フローリング、トイレ仕様などなど。。。
トイレは特に障害を持っている人たちにも気持ちよく使ってもらえるように考えないと。
今回の宿題の一つになった。でも会議が終わって、、、
障害者の人たちにも気持ちよく使ってもらえるように、車椅子を今は使っていない私たちがいくら考えてもだめだよなぁ、、、たとえマニュアルがあっても心が入らないよなぁと思った。

そしたら、、、ちょうど、、、今日(23日)、、、

生まれたときからの障害で車椅子で生活をしている友達からメールが来た。彼女は大阪周辺のいろんな施設を回って、バリアフリーになっているかどうかを調べて冊子を発行してアピールをしているのだ。そして今は特にトイレ事情を丹念に調べているところだった。

「・・・神父さんも読んだと思う既刊誌の10号に載ったトイレのことで、悪いほうに書いた○○○療○園からクレームがあり、その言い分は、『ここは障害者施設なのに、何も考えていないと言うような事を書かないで欲しい。載せる前に一言いってくれたら変えていたのに。』と言われました。私が言わなければ変わらなかったのではないかな? ・・・」というような内容だった。

障害者施設なのに当の障害者から言われるまで気がつかないなんて、、、
きっと健常者が障害者の”ため”に作ったからそうなったんだろうなと思った。障害を持っている人のことは障害を持っている人が一番良く分かっている。障害者の”ため”じゃなくて、障害者と”とも”に考えないとなぁ。。。

気づかせてくれてありがとう!すぐに彼女にトイレの図面をメールした。

22日からは聖堂の「ゼロ柱」の打ち込みが始まった。
よく分からないけど、、、ゼロとは0のこと。つまり、次は1で、その次は2なのだろう!?次々に柱が積み上げられてゆくのだろうな?

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南側の掘削も始まっている。今は梅雨のシーズンなので掘った所に入った水を吐き出すのに手間もかかるだろうな。

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それにしても、いろんな機械が活躍しているなぁ。
この工事だけで一体何種類の重機が使われているのだろう。

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2006年6月17日 (土)

たかとりは地獄らしい?

今日は住吉教会の献堂式だった。これで、震災時に崩壊し、その後活動の拠点になった3つの教会(神戸中央、住吉、たかとり)で残るはたかとりだけとなった。住吉教会は幼稚園とともに再建だった。ようやく新たなスタートが始まる。
式の後に雨の中でパーティが開かれた。私も飲み食いしていると、パーティに参加していた一人のおばちゃんが近寄ってきて、「あんたはいつまでたかとりにおるんや」といきなり言うてきた。「分かりませんけど、そろそろやろね」って言ったら、ニヤッとして、「それはよかった。それ以上たかとりおったら、あんたは地獄に行くで」ってボソッと言いやった。「はぁ?地獄ですか。またなんでぇ?」って聞き返したら、何やらかんやらブツブツと言うてはった。ようわからん。でもまぁ敬虔な教会の信者の人が外野から見たら、たかとりは地獄に見えるんかもしれへんなぁ。教会っていろんな人おるからなぁ。
でも同じ言葉を使うんやったら、なぁおばちゃん、こう言わなあかんで。「たかとりは地獄を見てきたんやなぁ。でもその地獄の底から這い出してきたんやなぁ」って、そう言わなあかんのとちゃいますか。でないと、敬虔なクリスチャンにはなれまへんで。教会に行ってて、人に向かって地獄に行くでって、呪いの言葉を平気で口にできる、そんな信仰をどこで学んできはったんや。なぁおばちゃん、おばちゃんの心の平安を祈っとったるからなぁ。。。

2006年6月15日 (木)

060615 第2回総合定例会議

今日は建築総合定例会議。
施主、設計、建設の3者で進み具合の確認をしてゆく会議だ。
今回は2回目で出席すべき全員が揃った。
前回の懸案事項が決定された。
だいたい教会は庭があって門があってだが、、、
新たかとり教会は四方を囲まれた形になっている。
そこで問題になったことが入り口の門のところも建物の下をくぐることになること。
その高さが3メートルにならないわけだ。
これじゃ~大きなトラック(4トンユニックなど)が入って来れない。
いざと言うときに消防車も入れない、、、ということで
入り口の門のところだけ切り上げて高くすることにした。
こんな細かい調整がこれから続いてゆくことになる。。。

現場の掘削作業は続いている。

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会議が終わって戻ってきたら地域の人たちが何やら相談していた。
私が車を止めているところ辺りの排水溝の蓋が壊れているので
何とかしようということだった。
ちょうどたかとり教会の建築現場に要らなくなった木切れがあると言うので
頼んで2枚もらうことにした。

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2006年6月13日 (火)

060613 掘削始まる

月曜日から掘削が始まっている。
まずは北角(食堂があったところ)の聖堂予定地から。
まだ仮止めの途中だけど、この板の部分が山留め!?
掘削している間道路や家が崩れてこないようにするためだ。
下の方には本杭の頭が見えている。
掘った所にはコンクリートが流し込まれるのかな?
聖堂は変った形やからこの辺りは基礎に気合が入るところやろなぁ。

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杭打ちで出てきた土はトラックで何回も運び出されていた。
トラックに山ほど積み込めば回数が少なくてすむのに、、、って思うけど
一回に乗せる分は荷台の側面から見えるか見えない程度。
重量制限があるからやなぁ。何回も何回も手間のかかることです。
何かノリとしては物足りないけど、解体のときにトラックに山ほど積んで
木材をリサイクルしに行った頃とはチトちゃうなぁ。
cf: http://phknd.tea-nifty.com/phknd/2005/10/051018_18ad.html


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山留親杭の打ち込みも今日で最後。
打ち込みの機械は背が高いから見てても危なっかしい。
風が吹いたら倒れそうな気もする。
隣の電線に倒れたらそれこそ大事になる。
数千ボルトの電流が流れてるからね。
、、、と思ってたら、、、
工事のためにちゃんと電線がシールドされていたよ。

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ps:
教会のすぐ北側でも今震災仮設住宅が解体されている。私の仮住まいはそのすぐ向かいだけど、部屋にいるとずっと地震みたいで揺れてるし、音もやかましくて部屋にいるとイライラして落ち着かない。昨日、朝の早よから人の声で起こされた。よく聞いていたら工事現場の人におっちゃんが絡んでいた。「やかましいて寝られへんやないか、どないなっとんねん」「まだ終わっとらへんのになんで防音ネット下げたんや。すぐ上げんかい」「隣のおばはんイライラして病院行きよったぞ」、、、昼が過ぎてもまだ絡んでた。見に行ったら、そのおっちゃんさり気なく二の腕の刺青をチラチラさせながら言うとった。確かにこの解体は荒いんとちゃうかぁとおもとった。(私らの解体の時はもっとやかましかったに違いないけど、、、すんません)気持ちは分かるけど、まぁしゃーないでおっちゃん。おっちゃん住んでるとこも作る時はやかましかってんで。町全部が復興するまでは辛抱せなあかんやんかぁ。

2006年6月10日 (土)

人なんて信じたらあかん!?

今の世の中、人を信じて生きなさいなんてなかなか言えないな。一度人に裏切られた経験をしてしまうとトラウマのように引きずってしまう。「信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷つく方がいい」なんて歌があったけど、なかなかそうはいかんわなぁ。特に、子どもたちにもそのように言えなくなってきていることが悲しい。親しい大人や、ましてや家族にまで裏切られて生命さえも失ってしまう子どもたちが何と多いことか。。。

何か悶々としていたけど、、、最近私は教会の中でも、「人なんて信じたらあかん!」ってハッキリ言うようになった。みんなビックリする。「えっ?あんた神父やろぉ。そんなこと言うたらあかんやん。前々から変な神父や思ってたけど、それはなんぼなんでもあんたが言うたらあかんやろぉ」って言われる。でも、やっぱり、「人なんて信じたらあかん!」ってめげずに言う。

何でそう思うようになったか?それは、、、日常で使う人を信じるってことはとても自己中心的なことやなぁって思ったから。。。「え~っ?それ逆とちゃうん?」って言われるかもしれんけど、やっぱりそう思う。「オレのこと信じられへんのか!」って押し付けてるのをよく聞くから。「あなたのことを信じてるからね」ってのも何かしたたかに押し付けがましい。それに主体性のない言葉やなぁとも思う。なぜって、関係性を相手に託した言葉やなって思うから。そこから生まれる主体的なことは我慢しか見えてこない。働きかけが感じられない言葉やと思う。

耳を澄ましてよく聞いていたら、「男なんて信じられへん」「外国人なんて信じられへん」「他の宗教やってる人なんて信じられへん」「前科のある人なんて信じられへん」、、、ってことは平気で言ったりする。結局、自分と同質でないと信じる対象じゃないことに気がついた。

もともと信じることがそんな狭いもんやったら、やっぱり「人なんて信じたらあかん!」でええと思う。なぜって、人は信じるもんやなくて、大切にする(愛する)もんやと思うから。信じられへんかっても、文化や民族や宗教が違っていても、どんな過去を持っていようとも、そんなんどうでもええ。所詮弱いもん同士。どんな人であっても「いのちあるもの」として「人を大切にして生きてゆこう!」って、子どもたちに伝えてゆきたい。

信じるっていうのは、「うつり変わって行くもの」にではなく、「うつり変らないもの(例えば神)」に対して使う言葉であるのとちゃうかなぁ。。。

2006年6月 8日 (木)

060608 梅雨入り

平年より少しだけ早いが、今日から梅雨入り。
午前中はアスタで会議なので昨晩たかとりに戻ってきた。。午後から大阪の司教館で2つの会議で、終わればもう夕方6時に。忙しい一日やった。
アスタの会議に参加していた神父(Fr.石井、Fr.中村)を2人連れて移動前に工事現場の見学。現場では山留親杭を埋め込む作業中。月曜日からは聖堂建設予定地辺り(左の写真の左奥)の掘削が始まる。今のところ予定通り。今年は梅雨シーズンも小雨であって欲しい。

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今からまたたかとりに戻ろう。

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