« 060623 トイレ事情 | トップページ | NGOベトナム 5周年 »

2006年6月28日 (水)

取材

いまだにキリスト像を取材しにきてるところがある。ある意味、震災のシンボルにもなってしまったので仕方のないことだし、取り上げてもらうのは自由なことだが、これまで同じ事を何十回、いや何百回聞かれてきたことだろう。「奇跡のキリスト像」として取り上げられるのを拒みつつ、偶像崇拝的な信仰の対象とされるのを拒みつつ、「多文化共生のシンボル」としての意味づけをこれまでにも話してきた。しかし、何回も裏切られてきた。もうキリスト像に関する取材は自分にはトラウマのようになってしまっている。取材に来られても冷たく応対してしまう。

キリスト像のことだけでない。震災のこともそうだ。勿論こちらから伝えたいこともあるし、伝えなければならないとも思うのだが、突然にやってこられて、いきなり、「震災のときはどうでしたか?」なんて聞かれてしまうと、申し訳ないことだがため息をついてしまう。自分のことを腹をわって話せるようになるのは友人でも時間がかかることだが、取材の場合は短時間で合理的に誘導尋問のように質問が飛んでくる。そんなことがあった日には何か後で空しさしか残らない。そんなことは続いてきた。。。

1年ほど前に、それでも電話で取材の申し込みがあって、なぜかしら受けてしまった。○○新聞社で、これまで脅迫めいた取材までされて嫌な新聞社だったが、それは記者の人格の問題でもある。今回は話しの持って行き方がよっぽど上手かったのだろう。受けてもいいと思ったし、久しぶりに気持ちよく話せたし、気が付いたら2,3時間も話してたと思う。あるコラムに乗せるので写真も撮りたいからとまた別の日にもやってきて時間を割いた。ところが、1年たっても掲載された気配はない。ボツになったのならボツになったで何の問題もないことだが、それでも一言いうべきではないのだろうか。記者にとってはビジネスの時間だが、取材を受ける側は生活の時間を割いているのだから。

実はこのブログを書き始めたのは、そんなこともきっかけだった。毎回同じ事を聞かれるのはやっぱり辛いので、いっそのこと、コツコツと自分でたかとりのことを書いていこうと思ったからだ。その上で、私も気が付かなかったことなどでコメントがあったり取材があったりすると逆にとても嬉しい。

ところが、昨日の△△新聞社の電話取材は違った。キリスト像の取材で、このブログのある1行を私のコメントとして載せてもいいかということだった。もちろん断った。たった1行でも全体があっての1行だ。1行だけ一人歩きしてしまったらどういう結果になるかは目に見えている。今までもそうだが、その人自身を取材していると言うよりも、こちらの口にした言葉の都合のいいところだけを材料にして自分の作品を作ってるって取材が何と多いことか。世の中には言葉にしたくても言葉にならないものがたくさんある。それを言葉にするのがメディアの役目だと思うのだが。

« 060623 トイレ事情 | トップページ | NGOベトナム 5周年 »

かんちゃん日記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/163269/10713391

この記事へのトラックバック一覧です: 取材:

« 060623 トイレ事情 | トップページ | NGOベトナム 5周年 »