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2020年8月

2020年8月 1日 (土)

TCCは設立20周年を迎えます‼️

“違い”を多文化な豊かさに育てていく
たかとりコミュニティセンター

日比野純一 / 神田 裕

「たかとりコミュニティセンター」(TCC)は、神戸市長田区海運町にあるカトリックたかとり教会の中 に位置しています。たくさんのNGONPO、地域、教会の楽しくて頼もしい仲間たちが自由に集まって、神戸長田の町を中心に、多文化で多彩で豊かなまちづくりひとづくりを目指して、ささやかですが大きな夢を持って一緒に歩んでいるところです。

たかとり教会のある神戸市長田区は、古くから在日韓国朝鮮人が多く暮らしていた町で、1980 年 代以降、 ベトナム戦争後に難民として避難してきたベトナム人たちが生活拠点を築いていきました。神戸市長田区の人口の一割は外国籍の住民で、たかとり教会は昔からそうした外国人の信徒が集う教会でした。

その町に 1995 1 月、阪神・淡路大震災が襲い、この地域はほとんどの建物が崩壊し、火災によって焼き尽くされてしまいました。教会の周辺一帯は一面の焼け野原になりました。 しかしそんな中でも、お互いに助け合い声をかけ合ってこの痛みを乗り切ろうと、地域の人々や多くのボランティアの人たちが夢を持って立ち上がりました。震災で多くのものを失いましたが、多くの人々との 出会いが生まれ、新しい仲間もたくさんできてきました。こうして TCC の前身であるたかとり救援基 地が生まれました。

被災した教会に色々なところから見知らぬ人たちも見知った人たちもたくさん被災地にやってき て下さいました。そして、救援活動の一つが始まりました。これが、たかとり救援基地(鷹取教会救 援基地)の始まりです。ボランティアの人、被災した地域の人や教会の人も一緒に活動を始めまし た。炊き出し、避難場支援、仮設支援、臨時診療所、ことば支援、生活支援、まちづくりなどなど。

救援活動は長くても 3 年で終わるはずでした。ところが、長田にたくさん住んでおられた高齢者の 人々や外国籍の人々との関わりは、3 年は終わりではなく、始まりであると知りました。それからも救 援基地での活動は細分化されて行き、統廃合も繰り返し、きめ細やかな活動に進化していきました。

2000 年には「特定非営利活動法人たかとりコミュニティセンター」として、この地域社会の中で、誰であっても見捨てられることのない、まちづくりひとづくりを目指して歩み続けることの覚悟を決めま した。1950 年に教会内にできた幼稚園が、地域の人々のまちづくりひとづくりの役割の片隅を担っ てきたことの後を継ぎ、半世紀後にもう一度思いを新たに、大人も子どもも一緒の幼稚園ができたような感じです。

「たかとりコミュニティセンター」には、在日外国人の自助支援の団体、高齢者、障害者の暮らしを 支援する団体など9つの団体がセンターの中で活動しています。教会の信徒や地域の人たちだけでなく、地域を越えてたくさんの人たちが活動に参加に参加しています。老いも若きも、男も女も、 多文化で、多国籍で、今日も新たに個性豊かなメンバーが加わり続ける、「たかとりコミュニティセンター」がここにあります。

阪神・淡路大震災からの救援、復興を通して、多文化が社会の力になっていく、ということを私たちは学びました。もう1つは、自分たちの地域のことは行政任せにするのではなく、自分たちが意思決定をして、自分たちで良くしていく、ということです。一人一人の市民の力がまちを作っていく のです。

そうしたまちづくりの中で、国籍が違うからとか、肌の色が違うからとか、宗教が違うからとか、女性だからとか、障害があるからとか、そうしたことで窮屈な思いをするのではなく、誰もが決して排除さ れることのないまちをつくっていくのが、たかとりコミュニティセンターの活動の目的です。

多文化の力を育てていくために、「たかとりコミュニティセンター」近くの公園で毎年行っている地域の夏祭りで多国籍料理の屋台を仲間の外国人たちと出店しています。初めのうちは、お客さんたちはおっかなびっくりでしたが、次第に受け入れられるようになり「食べてみるとおいしいやん」と喜ばれています。他の文化・民族との接点を積み重ねるように出会いや、つながりの場を作っていく。そうするとお互い、一人ずつの顔が見えてきて、知人同士となります。こうして小さなことの積み重ねで多文化共生のまちは育っていきます。

「たかとりコミュニティセンター」のリーフレットには「ゆるゆる多文化いとをかし」と書かれています。 「ここに集う私たちは、不思議なゆるさを感じています。このゆるさはなんだろう。ちがう言葉が きこえ、子どもが遊び、仕事に取り組む人がいて、語り合う人たちが集まっている...。そんな人たち が織りなすゆるさなのかもしれません。ゆるいからつながれる、ちがうのがおもしろい。」とし ています。そういうゆるさを持って、まちづくりに取り組んでいます。

「まちづくりは、ダチ(友達)づくり」なのです。

大阪カトリック時報 20186
2018

二つの廃線。。

三田教会の司牧エリア内には廃線になった二つの鉄道があります。

有馬線は、三田と有馬温泉をつないだ最初の軽便鉄道で、1915(t4)に民間の会社が開業したもののすぐに国が借り上げ1919(t8)に国有化されます。後に、その会社は再び鉄道事業に着手し、神戸、有馬、三田を結ぶ今の神戸電鉄が1928(s3)に開業します。その後、有馬線は行楽路線のみであることもあって戦時中の1943(s18)に不要不急線となり廃線となります。国はその後、廃線の部材を使って篠山線敷設に着手することになります。(コロナ禍でよく耳にする不要不急は戦時中に使われていた言葉なのですね) 

篠山線は、丹波地域で産出されるマンガンや珪石の輸送のためと、海沿いを走る山陽本線が攻撃を受ける可能性があったため篠山から園部に至るバイパスを目的としてつくられます。戦時中の1944(s19)にまず篠山口駅と福住駅の間が開業します。福住にはマンガン鉱山がありました。しかし終戦を迎え、戦時下での必要はなくなり、予定されていた園部までの延伸は中止となり、1972年に廃線となります。 

このように篠山線は戦争のために作られたようなものでしたが、丹波は良質のマンガンが取れる地域だったのだと知りました。約300のマンガン鉱山がありました。マンガンは鉄と混ぜて鋼鉄となり武器製造などに必要な軍需物資でした。戦争末期には増産により全国で35 万トンが産出されました。丹波地域だけでも3千人が働いていたそうです。そしてこの危険極まりない鉱山での採掘には、被差別部落の人たちや朝鮮の人たちが多く従事していました。過酷な採掘労働だけでなく、十分な装備もなく塵肺という病気でその後も苦しい生活を強いられてきました。 

この夏には、これらの廃線跡を訪ね歩いてみたいものです。また、「丹波マンガン記念館」というものがあるそうで、平和旬間には足を運んで丹波の歴史の一つを学んでこようかと思います。 

202081
三田教会 神田裕

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