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2021年11月 1日 (月)

なんで神父なんかに。。。

なんで神父なんかになろうと思ったのか? と友人たちからこれまでも度々質問されてきた。よほど違和感があるのだろう。敢えて聞かれてしまうと返答に困ってしまう。

教会は老若男女多国籍、ゆりかごから墓場まで。こんなところは他に中々類を見ない。昨日は赤ちゃんの祝福式、今日は結婚式、明日はお葬式と、毎日が人生の縮図なのだ。そう見れば教会は人間味が豊かで面白い。

ただ現実は中々面白いと言ってはおられない。男は女を理解できないし女は男を理解できない。老人は若者を理解しないし若者は老人を理解しない。いわゆる健常者は障がいを持つ者を理解しないし障がいを持つ者は健常者の言う普通というものが理解できない。外国人がマイノリティであるうちは世話をするがマジョリティになってくると目障りになる。長年にわたり教会に関わるものと年月が浅いものの間には溝がある。過去は大事だが未来を見据えない。弁が立つ人は寡黙な人を抑え込む。理屈が先に立つ人は人を傷つけやすく自分を表現するのが苦手な人は傷つきやすい。深入りすると面倒なので浅く関わろうとするが、思い直して何か奉仕をと一生懸命にし始めた途端に、何もしない人に腹が立ってくる。おまけに、善意は仇になって返ってくる。

教会というところは実に厄介なところなのだ。関わらない方がよっぽど心の健康を保てるようにも思える。しかしよくよく考えてみると、教会は何も特別ではなく世間そのものなのだ。ただ世間と違うところは、同じ信仰を持つ者たちが、家族のように否が応にも関わらざるを得ないことだ。関わらざるを得ないから学ぶことができる。教会は社会の縮図なのだ。教会を通して実際に生活をしている社会を理解し、何を大切にして生きるのかの準備をしているのだ。

なんで神父なんかに? それは聖なる生き方をしたいから?! 聖なる生き方とは俗から離れることとは思わない。聖なる神が誰一人見捨てることなく一人ひとりを大切に関わる姿に倣って自らの生き方とする。教会は選ばれし者だけが集う会員制クラブではなく大衆酒場だ。わっさわっさと関わりながら、み言葉を頼りに希望の光を探したい。

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