大きな木
「むかし りんごのきが あって… かわいい ちびっこと なかよし。…」…
シェル・シルヴァスタインの絵本「おおきな木」の始まりだ。少年の成長とともに歩んだ木の話。葉っぱで王冠をこしらえ、木によじ登り枝にぶら下がりりんごを食べる。それで木はうれしかった。少年は大きくなって、お金が欲しくて、りんごの実を全部持って行ってしまった。家が欲しくて、枝を全部持って行ってしまった。旅をするための船が欲しくて、幹を切り倒してしまった。でも木はそれでうれしかった。年老いた少年は、よぼよぼになって木のところに戻ってきた。木は言った。「このふるぼけた切り株が腰かけて休むのに一番いい」。少年はそれに従った。木はそれでうれしかった。
絵本の英語のタイトルは「The Giving Tree」。なんだか切なくて、悲しくて、それでいて温かくて。親と子の関係なのかと想像したり、神さまと私たちの関係なのかと想像したり、思いは巡っていく。
教会にも大きなイチョウの木があって、秋には銀杏の実を実らせ、黄色い葉っぱは敷地の絨毯となり、目を楽しませてくれる。私には大好きな木で、見る度にこの絵本を思い出す。ところが、イチョウの葉っぱは、教会を出て、隣のお家や隣の道路まで飛んで旅に出てしまう。ある晩秋の夜中、教会の横の道路を通っていて気が付いた。近所のおじいさんが背中を丸めて街路樹の葉っぱと教会のイチョウの葉っぱを掃除してくれていたのだ。イチョウの木は庭の隅っこの窮屈なところで、50歳ほどだけどとても大きくなりすぎた。大きく張った根は隣の石垣を侵食し、他の小さな植物たちの栄養も持って行ってしまう。大きくなればなるほど葉っぱたちはもっと遠くへと旅をする。気象変動の大きい今、巨大な台風で倒れやしないかと気が気でない。倒れれば家や道路は直撃だ。私たちの目を楽しませてくれるのはありがたいが、段々と厄介なイチョウの木になってしまった。どうしたものか、イチョウの木よ。「The Giving Tree」になってくれるか。
私たちの住んでいる人間社会にも「木」がいっぱいあって、中にはとても大きな木もある。ところが先月ビックリする出来事を見た。大きな木が小さい木の栄養分を吸い取ろうと露骨にまとわりついてきたのだ。現実の世の中、大きな木はその力でもって小さい木を栄養分として自らを尚も太らせる。人間社会の大きな木はとても厄介なのだ。
絵本の中の大きな木は、単なる理想の夢物語なのだろうか。大きな木が、自らの身を削ってでもちびっこと暮らしたことは、大きな木にとってはとてもうれしいことだったと、言える時代は来るのだろうか。
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