教会が潰れて燃えて初めて「教会」に
教会が潰れて燃えて初めて「教会」に
ゆるゆる多文化 いとをかし
たかとりコミュニティセンター
阪神淡路大震災から 10000 日
まちが燃え教会が燃え、消火活動もむなしく疲れ果て、近くの中学校へ避難した。教室にはすでに入りきれないのか運動場に 20 人ほどが車座になり石油ストーブを囲んで暖を取っている。よく見るとストーブの上にはなんとステーキがのっている。食べろと言われたが食欲もなく断った。すかさず声が聞こえた。「神父さん、こういう時はちゃんと食べなあかん!」。一口食べ、心強い言葉に安心し、震災初日、彼らと一緒に毛布にくるまり満月を見ながら運動場で寝た。
その時一緒にいた子たちが言った。「どこから盗んで来たんやと言われた。潰れた自分の家から食べ物を取り出し皆で分けて食べていたのに。悔しい!」。命からがら海を渡ってきた彼らのたくましさに勇気づけられながらも、この社会の中では偏見の中で暮らしていた。地震の中であっても変わらなかった。
1995 年 1 月 17 日 5 時 46 分。大地震が発生。一瞬にして街は崩壊し瓦礫と化した。教会の聖堂もなくなりなすすべもなかったが、日曜日にはみんなミサに集まってきた。避難所から教会まで歩いてきた。「主よ、あわれみたまえ」に涙した。たかとりの信者たちは、家も財産も失い、瓦礫の中に閉じ込められ、けがをした者もいたが、幸いにしてみんな命は助かった。着のみ着のままに集まった。生きて出会えたことを喜んだ。笑顔があった。その笑顔を見て思った。教会は潰れて燃えてしまったが、それでもここに「教会」があると。
たかとり教会は、1927 年に設立された。神戸市長田区に位置し、アジアの人々が多く暮らす町の中にある。教会には同じアジアの日本人はもちろんのことコリアの人たちも多く、多文化な教会としてスタートした。1950 年には幼稚園もでき地域とのつながりが深まっていた。1980 年代からはボートピープルとしてやってきたベトナム難民の人たちも加わるようになった。
1993 年に、ベトナムからキリスト像がやってきた。ベトナム、コリア、日本の人たちがともに手を取り合って暮らしていくことを約束したたかとり教会のシンボルだ。その台座には、思いの詰まったタイムカプセルが入っている。台座の前面には「互いに愛し合いなさい」と聖書の言葉が 3 か国語で書かれてある。聖堂の脇に立っていたので、被災したが、キリスト像は崩壊せず立ち続けた。「奇跡のキリスト像」と言われ、震災復興のシンボルとなった。
震災後すぐに、教会敷地内で「たきび」を起こし、暖を取りながら非日常の日常がスタートした。知った人も見知らぬ人も、どこからともなく二人三人とリュックに水と食べ物を入れて救援に駆け付けてくれた。そして、集まった人たちとともに、「鷹取教会救援基地」として活動が始まった。瓦礫の片づけや公園での炊き出し、避難所支援、仮設支援などなど。
大阪教区もすぐに住吉、中山手、たかとりを救援拠点として支援体制に入った。震災後、教区の基本方針、「大阪教区が目指す阪神大震災からの<再建>計画は、単に震災以前の状態に復旧することではない。キリストの十字架と復活(過越の神秘)の新しい生命に与る<新生>への計画である」が出された。教区は現場の判断を大切にしてくれた。
たかとりは明石、垂水、北須磨、鈴蘭台のバックアップ体制の中で活動が続けられた。大阪教区内外の小教区や個人も自主的に支援を続けてくれた。物資の支援はもちろんのことだが、何よりも直接に駆け付けてともに過ごしてくれたことが大きな励みとなった。
震災後のベトナム人支援として動き出していた学生たちや支援団体の人たちが教会に集まり出した。そして救援基地の中に「被災ベトナム人救援連絡会」が立ち上がった。震災後の神戸で最初に立ち上がったNGOだ。
長田の町はコリアの人たちが以前から多く住み、震災後もコリアの人たちの救援活動も独自で始まっていた。そして彼らが、ベトナムの人たちに思いを寄せてくれることで、電波を使っての救援活動が始まることになった。教会内にFM 放送局が誕生することとなり、多言語で震災情報を発信する活動が始まった。
大阪教区は、全国のカトリック医師会と連絡を取り、被災地の医療支援をはじめた。その拠点の一つがたかとり教会内にでき、近隣の診療所が再開されるまでの期間、全国のカトリック系の病院から医師や看護師を派遣してくださった。1995 年 4 月 16 日の復活の主日にその活動を終え、そのあとは、たかとり独自で「まちの保健室」として活動が継続されることになる。リーフグリーンの前身だ。
コリアの人たちの支援で動き始めた FM 放送は、その同じ復活の主日に、ミニ FM 放送局ユーメンとしてベトナム語他 4 言語でスタートすることになる。そして半年後の 7 月 17日に、「韓国語ミニ FM ヨボセヨ」と「ベトナム語ミニ FM ユーメン」が一つとなり、「ミニFM わぃわぃ」となる。
その後、全国からの支援金をもとに株式会社を設立し、教会敷地内に大きなアンテナを建て、1996 年 1 月 17 日に正式にコミュニティーFM 放送局として開局し 10 言語で震災情報を流し始めた。
震災救援活動は長くても3年で終えるはずだったが、震災からちょうど 1000 日になった日に、名称を「たかとり救援基地」と改め、これまでの救援活動から、日常生活への支援活動へと移り変わっていくことになる。すでに教会外で始まっていた活動と教会内で生まれていった活動も互いに連携しながら、日常の活動へと進化していった。
2000 年には、たかとりコミュニティセンターと名称を改め、特定非営利活動法人格を取得し今に至っている。地元地域の人たちに言われた。「教会に幼稚園がなくなって敷居が高くなっていたが、再び幼稚園が戻ってきた。子どもも大人も集う多国籍な幼稚園だ」と。
なぜ、教会内にこのような活動が今も続けられているのか。それは、ここに集う人たちが、「弱い立場に置かれた人々と共に歩む」教会としてキリスト者として生きているはずの私たちと、同じ使命をもって同じ目的をもってこの社会の中で生きようとしているからだ。単なる活動のテナント貸しでは決してない。
キリスト像の台座に書かれてある「互いに愛し合いなさい」は、教会と地域と NGO の三者が一つになって、それぞれの特性を生かしながら、同じ目的に向かうための言葉でもある。誰一人見捨てられることのないまちづくりを目指して。
震災時のとっさの判断は、思いつきのことではなかった。脳裏をよぎるのは、神学生時代に先輩たちや仲間たちとよく語っていたことだった。生き方の方向性を学んだ。
もう一つは、神父になってからだが、大阪教区の司祭仲間たちと未来を語り合ってきたこと。「勝手にヴィジョンを考える会」という集まりを持っていた。20 年、30 年先の教区を語り合っていた。たかとりでの震災救援もそのことが根底にある。
2022 年 6 月 4 日に震災 10000 日を迎えた。たかとりでの活動は今も続けられている。その活動は、10000 日前の思いと何ら変わることなく続けられている。まちがあり、教会がある。まちの中にある教会が「まちづくりひとづくり」として、外国籍であれ高齢者であれ、誰ひとり忘れ去られることのないまちをつくること。「まちづくりはだちづくり」は教会の言葉にすれば「福音宣教」だと思っている。教会が地域社会の中で福音宣教をするということは、地域に耳を傾け、人として生きるにふさわしい地域社会に貢献することだと思っている。
キリスト教国ではなく、宣教国としての日本のカトリック教会にあって考えることがある。それは、「グローカル」という言葉だ。グローバルな視野を持ってローカルを生きるということだ。カトリック教会はグローバルそのものだ。世界中どこへ行っても私の居場所がそこにある。大きな支えだ。
ただ、ローカルをおろそかにしてはならない。どこの教会に行っても、信仰上のグローバルな価値観は一致するのだが、ローカルな部分では同じであるはずはなく、もっと教会は、その地域の歴史や特性と深くかかわり、ローカルに根差した個性を持った教会であってもいいはずだ。どこの教会に行っても、グローバルなネットワークを強みとしながらも、他の教会にはないローカルな特徴があってしかるべきだ。ひとり一人がみな違うように、教会も違っていて当然ではないのか。
キリスト教国の教会中心ででき上がった町の中にある教会像は、宣教国で同じことをしていては、教会は地域社会の中で孤立したものになってしまうと思うのだが。
3年近く前、日本に来られたフランシスコ教皇が、東京ドームでのミサの説教で、「教会は傷ついた人を癒やす野戦病院」と語られた。この「野戦病院」という言葉に強くひかれた。「まちへ出かけていく教会」と勝手に解釈した。
「教会」は建物のことだけでなく、キリスト者そのもののことだと思っている。ミサから「まち」へ派遣されていく私たちひとり一人が「教会」だ。教会が潰れて燃えて初めて「教会」になったと、震災直後に思わず語った言葉は、今でも色あせることなく、そうだと思っている。
「ゆるゆる多文化いとをかし」と、ゆるやかに柔軟に地域とともに歩む「教会」でありたいとの願いも込めてのキャッチフレーズだ。それはもちろん、たかとりのことだけではなくてだ。
「奇跡のキリスト像」は、崩壊しなかったから奇跡なのではなく、教会と地域と NGO をつないでくださり、今も私たちと共に歩んでくださっていることが奇跡なのだ。
たかとりコミュニティセンター
代表 神田裕
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オリエンス宗教研究所
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