終わり方さがしは生き方さがし
桜は《散る》 梅は《こぼれる》 菊は《舞う》 牡丹は《崩れる》 椿は《落ちる》 朝顔は《しぼむ》 紫陽花は《しがみつく》などなど、花の終わり方はそのあり方を見てさまざまな言葉に表現される。
「花は散り際が美しい」と利休はいう。完全無欠を好まず、完璧を崩すことで、わびの境地へと導く。無駄なものを削りながら、最後に残るのは素の自分。慎ましく質素なものの中に奥深さや豊かさなどを見る。この時代にあって価値を転換、破壊して新たな価値を生み出す。それが茶の湯の世界ということか。利休の最期は、切腹を命じられ、権力者に対峙して散っていく。そして茶の湯は永ごうの命を得ることとなたっと。
完璧なまでに積み重ねられた掟の中にあって、最後に残るはこの掟。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして隣人を自分のように愛しなさい」。自己の完全無欠ではなく、完璧さでもなく、無駄なものを削りながら、貧しさの中に真理を見出し、与えられたいのちに気づく。「新しいぶどう酒は新しい革袋に」。この時代にあって価値を転換、破壊して新たな価値を生み出す。権力者によって十字架につけられ、死ぬことによって復活のいのちへと導かれる。死からいのちへと、パンとぶどう酒の中に永遠のいのちを得る。
茶の湯は仏の教えに悟りを得るが、戦国の世にあって、キリストの教えはその中に見え隠れするのではと勝手に妄想する。道具から空間、そして人そのものへと、そのあり方を追求する。日本文化の中にキリスト教は馴染みにくいとされるが、果たしてそうなのか。
終わり方さがしは生き方さがし。あなたの終わり方は何とする。
2024年、主のご復活おめでとうございます。
三田教会 神田裕