謙遜(けんそん)と謙虚(けんきょ)
謙遜と謙虚の違いがよく分からなくて調べてみた。英語ではhumilityでほぼ同じだ。
「あなた素敵ね。可愛いね。格好いいね」って言われた時、あなたならどう応える?「いえいえとんでもないです」と応えるのは謙遜な人。「ありがとう」とまず言って相手の気持ちを受け入れるのは謙虚な人。謙遜とは自分の能力や価値などを下げて自身を評価すること。謙虚とは相手の気持ちをそのまま受け入れることで、自分の能力や価値などは下げないこと。
謙虚とは自分というものをよく知ったうえで、素直に他者から学ぼうとする気持ちがあることで、好奇心と他者への関心と尊敬があり、そこから向上心が生まれてくるとあった。私たちの社会の中で良好なコミュニケーションをとり自分を磨くためには謙虚がよさそうですね。
「謙遜は世界と教会における平和の源」という日本語訳のタイトルで先月、教皇メッセージが発せられていた。その中で、ラテン語のhumilis(謙遜)という言葉はhumus(土)から来ていると知った。英語のhumilityもそこから来るのだろう。灰の水曜日には「あなたは塵(ちり)であり塵(ちり)にかえっていくのです」の聖書の言葉で頭に灰を受ける。謙遜のシンボルだ。
山上の説教で「心の貧しい人は幸い」とあるのも、マリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」「身分の低いこの主のはしためにも、目をとめてくださった」という祈りも、イエスがエルサレムではなくナザレで生まれたことも、十字架上でなくなったことも、humilisを謙遜と訳する所以だろう。謙遜はキリスト教のすべてだと言える。
この社会の中で人との良好なコミュニケーションには謙虚が必要で、神との良好なコミュニケーションには謙遜が必要ということになる。なぜ謙遜に神とのコミュニケーションを取ろうとするのか、それは私たち人類すべての平和と幸福を願うからに他ならない。謙虚に宗教を語りながらも、謙遜に神とのコミュニケーションが取れないところには、必ずと言っていいほど、争いが生まれるからだ。
三田教会 神田裕