“たかとり”震災語り ① 奇跡のキリスト像
「キリスト像が火を止めましたね。奇跡ですね!」
「いいえ、火を止めたのは人間です」
「キリスト像は燃えなかったですね。奇跡ですね!」
「いいえ、石膏なのでもちろん燃えないです」
「キリスト像は倒れなかったですね。奇跡ですね!」
「いいえ、土台をしっかりと作っていたからです」
今年も半年が過ぎた。そしてあと半年で、阪神淡路大震災から30年を迎える。
あの日、“たかとり”に殺到したマスメディアのお目当ては、焼け跡に残った「奇跡のキリスト像」だった。テレビ、新聞、雑誌などなど。いくら否定しても「奇跡のキリスト像」は発信され続けた。ふと思った。世間の目から見た教会はそうなのかもしれないと。自ら情けなくも思った。悔しかったので、キリスト像にヘルメットをかぶせた。するとカトリック系の雑誌がヘルメットのキリスト像を表紙にした。すかさず匿名の抗議の電話がかかってきた。「なんということをするのか!」と。被災地の様子を聞くこともなくただお叱りの電話。大真面目で反論した。「もし今キリストさんがここにいてはったら、こんなところでボォーッと突っ立ってへんでしょ。ヘルメットかぶってみんなと一緒に働いてはるんとちゃいますか!」と。教会は人の痛みはどうでもいいのか?やりきれない気持ちを持ちながら、震災の日々が始まった。
焼け跡のど真ん中で夜通したき火を焚く“たかとり”に、どこからともなく多くのボランティアの人たちが集まった。教会は被災地の救援拠点となった。避難場にいる人たちの生活支援、公園での炊き出し。ボランティアの人たちへの食事支援をするボランティアも集まり、自分たちの寝泊まりする建物もつくり、まちの保健室もつくり、多言語で情報発信する放送局もつくり、灰色の町にペンキで絵を描いてきた。
そして30年たとうとしている“たかとり”は、日常多くの人の集まる多文化発信拠点として今も進化し続け、ひとづくりまちづくりに貢献している。
キリスト像は今も同じ場所に立っている。みんなここに集まっておいでと言わんばかりに、両手を広げて立っている。キリスト像は奇跡を起こし続けている。
三田教会 神田裕