三田教会

2025年10月 1日 (水)

齢(よわい)を重ねる

「しんぷさま 重い荷物を持たれては大変 そのお荷物をお持ちいたしましょう」「えっ?とんでもないです!」「役立たずでごめんなさい」。たかとり教会に赴任したのは1991年、私が33歳の時だ。教会のご婦人たちと一日旅行に行ったときに F さんにそう言われたのだ。1905年生まれの女性で最長老だった。

震災直後にも言われた。「なにかお手伝いが出来ればいいのですが せめてこの材木を運びましょう」「いえいえ 腰を痛めてはいけないので結構です」「役立たずでごめんなさい ボランティアさんのために祈っています」。

震災前から月に一度は地区集会で聖書の分かち合いを続けてきた。西須磨集会は F さんを筆頭に高齢者も多い。仲もいい。週に一度は別の集まりもしていた。花札遊びだ。一度その賭場?へ行った。細かく書かれた手書きのルール表。いざ始まると、F さんの顔は鬼に変わった。厳しい目つきと真剣な表情が忘れられない。一方、北須磨集会の若手のお母さんたちはリーフグリーンを立ち上げた。

毎年行っていた敬老の祝いは震災時では教会として行うことは断念した。しかし F さんは言った。「私たちが企画するので敬老の祝いをしたい」。十数人の敬老対象者たちが出し物を考えた。おどけた厚化粧をして踊ってくれた。赤い半パンで歌ってくれた。三味線に長唄を披露してくれた。日本舞踊で踊ってくれた。若い人たちはみんなビックリだった。ボランティアたちへの感謝の気持ちは伝わった。カオスな教会は求心力を持った。F さんの祈りはこのことだった。

97歳の時に息子に先立たれた。その時の思いをしたためた手書きの手紙はいまも残している。

2005年5月に F さんの100歳の誕生祝いをミサの中でやった。その日を区切りに教会再建が始まった。

それから数年たって F さんは救急車で運ばれた。病院に見舞いに行った。「どうしたの?」「最近背中が丸くなってきたのが気になって 鴨居に手をかけ背中を伸ばしていたらそのまま動けなくなったのです どうも骨折したみたいで」「そうだったんですか 私にできることがあればおっしゃってね」「ふふ お肉が食べたい」。

108歳の誕生日の時に施設を訪ねた。瞼が下がって目が開かないのでテープで釣り上げていた。数百円の木製のかわいい指輪があったのでプレゼントと称して差し上げたら、左手の薬指を差し出された。初めての体験でドキドキした。

もうすぐ111歳になる僅か手前で旅立たれた。2月14日のバレンタインデーの日だった。チョコをもって旦那さんや息子さんのいる天国へ旅立たれたのだった。

F さんは戦時中、神戸で 3 度も焼夷弾で焼け出された。ここでは書き切れないが波乱万丈の人生だった。

齢(よわい)を重ねれば辛いも重ねることになる。ただそんな弱いも重ねれば丈夫になる。

一度しかない人生だ。最後の最後まで、豊かな人生を送りたいものだ。

三田教会 神田裕

2025年9月 1日 (月)

Discover Myself !

高校を卒業して目指したのは外国語を学べる大学だった。言語に興味があった。なんだか息苦しさを感じていて外国語を学んで違う文化に触れあえればもっと別の世界観で生きられるのではと思ったからだ。外国語の授業は技術的なものが多くてあまり面白くない。文化人類学や言語学の授業は面白かった。そんな中で気が付いたことがあった。他の文化を知りたいと思っていたが実は自分の生活文化のことさえもあまり知らないということだった。

思い起こせば大学時代はよくアルバイトをした。家庭教師や塾などはメインだったがそれぞれの子どもや家庭と触れ合えた。朝早くからのパン屋はあまり続かなかったが、おもちゃ屋は 2 年ほど続いた。おもちゃの世界に浸りながらレジの締め方を学んだ。スポーツ店でのテニスのグッズ売りとガット張りは1年。テニスをしたこともないのにノウハウを語っていた。レントゲン検診車に乗り一週間かけ名古屋の各企業を回り白衣を着て胃の検診のサポートをする。色んな分野で働く人のことを知る。トラックの助手席に乗り質屋を回り商品の上げ下ろしをする。最初の店に着いた時どうしていいか分からず助手席に座ったままでいるとめちゃくちゃ怒られた。指示待ちだけじゃだめだと学んだ。大阪南港のイベント会場で終了後の仮設設備の解体作業はきつかった。新興住宅地の一斉引っ越しの日に酒屋の帆前掛けをして荷物の搬入の手伝いを無償で行い如何ですかと酒の注文を取る。じゃビールを2ケース頼むよの言葉にガッツポーズ。京都のいくつかの大学周辺で学生向けのチラシを配る。配るというより学生の自転車の前カゴに有無を言わさず放り込んだ。等々。それでいつ勉強してたんやと今更ながらに思うのだが多くの学びはあった。

あっという間に大学時代は終わり、その後神学生志願者として東京の神学校へ行くことに。そこでは各地からくる神学生との共同生活が始まる。皆は同じ信仰同じ目標を持っているのだが各々の思いは違い生き方までもが違う。同じと思ってしまうからたまにはぶつかり合いもする。誰一人決して同じではなく違うのだということを学んだ。神父というひな形などないと思った。

“自分らしいこと人間らしいことを大切に” Y 司教の言葉を信じて神父になった。教会をベースにその地域を知っていく。同じ教会でも地域が違えば文化も違う。3 つ目の赴任先ではボートピープルのベトナム人家族たちとの出会いがあった。お家へ訪ねて行けばもうそこはベトナムの世界だ。ベトナムへ行かなくてもベトナム文化を体験することができた。なんと贅沢なことかと思った。

色んな人に出会い興味をもって他の文化を知り理解しようとすればするほど自分は何なのと思う。それは自分を知ることでもあるのかと思う。“Discover Myself” 自己発見してゆく旅でもあるのかと。

三田教会 神田裕

2025年8月 1日 (金)

日本基督教団 摂津三田教会 創立150年 おめでとうございます!

ご縁を感じながら・・・

150年という長きに渡ってこの三田の地で福音宣教に邁進し続けてこられたことに敬意を表します。教会のあゆみを見させていただきました。そのスタートは旧三田藩の陣屋跡を教会とされていたようで旧三田藩との繋がりからの由緒ある教会ですね。この教会のメンバーの皆さんが三田の「ひとづくりまちづくり」にずっと昔から関わってこられたことに同じキリスト者として心より感謝いたします。ご挨拶と共に、その歩みに合わせて自らの歩みと合わせながら、今この時を出会いの時として刻みたいと思います。

私は丁度還暦の時、2018年にすぐお隣のカトリック三田教会に赴任してきました。この教会が屋敷町に建てられたのは1952年のことです。摂津三田教会が始まって77年目の時です。1990年までは歴代フランス人の宣教師が主任司祭でしたがその年以降は日本人が担当しています。

あるフランス人宣教師は教会敷地内でアヒルを飼っていました。今は三田教会の長老 H 氏が小学生の頃そのアヒルの世話をさせられていたようで、旧三田藩陣屋跡の横の大池までアヒルを連れて散歩に行きそこでしばらく池で遊ばせてまた教会へ連れて帰ってきていたそうです。今から思うと、その頃あたりから摂津三田教会にお近づきになろうとしていたのかなと勝手に私なりの物語を作っています。ただ摂津三田教会が陣屋跡におられたのは最初の2年だけで、1877年には三田本町上に教会を建てられました。プロテスタントの教会として日本で5番目に建てられた歴史的な教会も残念なことに三田都市計画に伴う道路工事で保存が叶わなかったようですね。三田教会もその同じ道路工事で敷地の東側がだいぶ削り取られました。

摂津三田教会は1967年には2代目の教会が屋敷町に移転されご近所となって58年となりました。1988年には3代目の教会が建てられたようですが、その同じ年に私はカトリック司祭として歩みだした年でした。1995年に再び都市計画の影響で4代目の今の摂津三田教会が建てられました。阪神淡路大震災の時でした。その年、私は神戸市長田区のカトリックたかとり教会にて被災し救援基地として歩みだし今もたかとりコミュニティセンターとして多文化なまちづくりを目指して活動が続けられています。2024年に久保田牧師ご夫妻が摂津三田教会に来られました。初めての出会いでしたが、実は1995年の阪神淡路大震災の頃に出会いがあったのでした。それを知り一気に親しくさせて頂いています。

摂津三田教会創立150年。4代目の今の教会になられて30年。阪神淡路大震災から30年。いろんな出来事があった昭和の時代を生きてきた私たちには100年となりました。過去に摂津三田教会の人たちも神戸に移られてもいて、神戸とのつながりも感じながら、そしてご近所としてのご縁を感じながら、この節目の時を機に隣同士の教会として、この三田の地において「ひとづくりまちづくり」に一緒に関わって行きたいものです。

三田教会 神田裕

2025年7月 1日 (火)

ゴンタな子

「小学校の時 ゴンタな子がおってなぁ」 と、ある時、母さんが話し始めた。自らが体験したように話していたのできっとそうなのだろう。そのゴンタな男の子は教室の一番後ろの席に座っていた。一番後ろは見晴らしがいい。悪戯するにはもってこいの場所だ。前に向かって消しゴムを投げても誰が投げたか分からない。

いつものように授業が始まった。教室内には先生の声だけが静かに聞こえてくる、はずだったが、突然に後ろの席から女の子の叫び声が聞こえた。みんなはビックリして後ろを振り向いた。叫び声は泣き声に変わった。見ると叫んだのはそのゴンタな男の子の前に座っていた女の子だった。するとそのゴンタな子も大きな声で叫んだ。「こいつが悪いんや!」。

教室の後ろには赤く塗られたバケツがいくつか置いてあり、非常時の消火のために水が張られている。ゴンタな男の子はそのバケツを持ち上げて、よりによって目の前の女の子の頭の上から水を浴びせたのだった。なんということをしたのか。悪戯するにも程がある。先生もびっくりして教室中がパニックになった。なんでそんなことをするのと叱ってもゴンタな男の子は「こいつが悪いからや」としか言わない。被害にあった女の子は泣き続けて話すこともできない。教室のみんなはあっけにとられ、二人は教室の外に連れ出された。

先生は女の子に、「何があったの?何か悪いことしたの?」と聞いた。しばらく黙っていたその女の子は恥ずかしそうに、「授業中におしっこが我慢できなくなってお漏らしをした」と泣きながらやっと言えた。ゴンタな子のとっさの判断に感心した。

私自身はこんなことがあった。小学校の時の5時間目の授業中、気分がとても悪くなり、突然に机の上一杯に教科書やノートが見えなくなるぐらいゲロを吐いたことがあった。先生はじめ周りの子たちは「うわぁ!」と叫んで遠ざかった。めちゃめちゃ恥ずかしかった。どうしたらいいのか動けなくなった。すると後ろにいた女の子がすぐに、「大丈夫?」と言ってバケツに水を入れ雑巾を持ってきて机の上を綺麗にしてくれた。申し訳ないと思うと同時に、すごく嬉しかった。見た目も悪いしニオイもきつい。先生も近寄ってこない。そのまま授業は続けられた。

その教科書はふやけて2倍の厚みになってしまった。情けなさも2倍に膨れ上がった。それでも、恥ずかしい思いをしたときに、孤独にならないようにすぐに行動してくれた友だちたちに感謝!!

三田教会 神田裕

2025年6月 1日 (日)

ミックスルーツ

コンクラーベ(教皇選挙)が開催された。教皇に選ばれるのは歴史的にはイタリアの人が多いのだが、最近ではポーランド、ドイツ、アルゼンチンと続いた。今度はアジアやアフリカから選出されるのかもしれないと思った。白い煙が上がり、選出された新教皇が姿を現した。緊張した表情の中にも穏やかな笑顔があった。ホッとした、と同時に、シカゴ出身と聞きビックリした。今や“世界のビックリ箱”になっているアメリカから教皇が選ばれたのだった。

アメリカには移民排斥の動きがある。そもそも移民で成り立ってきた国のはずなのに、多民族なルーツの人々が集まっている国なのに、何故にと思う。 “クレオール Creole”という言葉がある。簡単に言うと混じり合いなのだが、異なるものが一つになって新しいものが誕生するというようなイメージの言葉だ。植民地や奴隷といった痛ましい歴史の中にあっても、それを克服しようとしてきたエネルギーが詰まっている。新教皇に選ばれたプレヴォスト枢機卿のルーツもとても豊かだ。母方の祖母はルイジアナ・クレオール(白人と黒人の文化が混じり合っている)で祖父がカリブ海イスパニョーラ島(ハイチ/ドミニカ)からの移民だ。父親はイタリアのシシリー島からの移民で、実に“ミックスルーツ”なのだ。それにしても“ファミリーヒストリー”番組のようによく調べる人もいるもので、家族もそのことを知らなかったようだが、それを知った教皇は自らを“移民の子孫”と あらためて名乗ったようだ。

そもそもどこの出身かなんて言うこと自体“井の中の蛙”のように思える。ルーツをたどれば人類は皆アフリカ出身なのだから。でも今は、身内志向がますます強くなり、他を排斥することで自らを守ろうとするような感じだ。ワールドワイドでものごとを考え、多文化が身をもって理解できるであろう“ミックスルーツ”な人たちが、地球規模での人類の平和へと導いてくれることを願いたい。教会自体も“ミックスルーツ”で成り立ってきた。歴史的にはユダヤから巣立ち “ミックスルーツ”な旅へとキリスト教は歩みだした。三位一体の神に共通の希望を持ちながら、旅を続ける多文化共同体だ。“教会”という漢字表記は好きではない。教えるって誰が誰に何を教えるのだろう。それよりも“協会”の方がいい。十字架(受難と復活)の希望のもとに、それぞれのルーツを持つ人や文化が互いを大切にしながら平和のために働く“力”の共同体だ。“協会”の方がキリスト教的ではないか。教えてあげようという上から目線な“教会”の歴史の中で、文化を侵略してきた負の遺産もたくさんあるが、本来のあり方はそうではないはずだ。

私たちが目指すのは、それぞれの歴史の中でつくられてきた文化を尊重し交流することで、ともに平和を模索し、そして新たな文化を創造していく、地球規模での“クレオール”だ。“ミックスルーツ” それは平和な未来を生み出し創造する原動力ではないのか。

三田教会 神田裕

2025年5月 1日 (木)

さびずに生きる

最近公開された映画の広告が目に留まった。104歳一人暮らしの女性のドキュメンタリーだ。周りの人には笑顔を忘れず勇気と希望を与え、家周りや道端の草取りも毎日する。「さびない鍬でありたい」が彼女の信条だ。「何かしていないと人間もさびる」。なるほどそうだなと思う。人生を味わいつくす。「さびずに生きる」という言葉に新鮮味を覚えた。ただそうは言っても、からだは日に日にさびてはくる。

毎年、枝の主日には、奄美大島からソテツを送ってもらっている。しかし残念ながら害虫被害による不作で手に入らなかった。ソテツは漢字では蘇鉄と書く。大島の土は鉄分が多く含まれていて栄養分がほとんどない。いわゆる赤土で、岩石が風化して土になる時に鉄分が空気中の酸素に触れてさびて赤くなる。だがソテツはそんな土壌でもしっかりと育つ。もっと言えば、鉄で蘇る植物とでもいうことができるかな。長い進化の歴史の中でソテツは自らの生きる術を得てきた。長い歴史の中で人も、そのさびた土を生かし、あの有名な泥染め“大島紬”を生み出した。

三田市は元々有馬郡三田町だった。その有馬の名前はこの地にある有馬温泉の有間からきている。日本三古湯の一つとして有名な有馬温泉は、実に 7種類の泉質を持っている豊かな温泉だ。大きく金泉銀泉と2種類に分けられている。その中の金泉と言われている温泉は、湧きだす瞬間は無色透明だが湯に含まれる鉄分がさびて色を出す。いわばさびた湯につかるわけだが、そのさびが実に心と体を癒してくれる。金泉と名付けたのもよかった。土にも水にも、さびることを生かした知恵があった。自分のからだのさびもうまくいかせればいいな。からだはさびても、そのさびが別のものを生み出すのかも。からだはさびても、そのさびが人をいやすものになるのかも。“からだはさびてもいのちはさびず”かな。

さびないいのちにいまを生きる
復活のいのちにいまを生きる
永遠のいのちにいまを生きる

三田教会 神田裕

2025年4月 1日 (火)

小さい頃は神さまがいて不思議に夢をかなえてくれた♪

「ひろし、お祈りしようか」。幼い頃のある日、母親が突然に言い出した。「雨が長いこと降らんと困ってはる人がいっぱいいてはる 雨が降るように一緒にお祈りしよう 神さんに頼んだら降るかも知れへん」と、一緒にお祈りをした。そして翌日、母親が、「ひろし、すごいなぁ!やっぱりひろしのお祈りは神さんよう聞いてくれはるわ!」「え、ほんま?」。雨が降ったのだった。ビックリするやら嬉しいやらで大騒ぎだった。ただ降り出した雨は、今度は大雨となり、川が決壊するほどになった。「あかん、お祈りちょっとききすぎたなぁ」。

今にしてみれば、偶然、雨の降る前の日にお祈りしただけの話しなのだが、それでも私にとっては祈りの原体験となった。つまり、世の中の出来事に目を向けるという原体験となった。

いつどこで何があったのかと今回調べてみた。ちゃんとあった。東京大渇水だ。東京砂漠ともいわれるほどの災害だった。1960年代初めから3年半もの大渇水で、水資源開発など急ピッチで進めたとある。特に1964年は深刻だった。8月中半には節水目標が50%となる。そして、8月20日に水源地に待望の大雨が降るとあり、大渇水もようやく一息つくことになる。私が幼稚園に通っていた時期だ。前日の8月19日は私の祈りの原体験の日ということになるかな。

「ひろしのお祈りは神さんちゃんと聞いてくれはる」。そこから神さんとの付き合いが始まった。みんなと仲良くなりたいと思ったら仲良くなれた。でも、大人になるに従って、神さん何も聞いてくれへんようになった。ほんまに何も聞いてくれへん。孤独になってきた。あかんなぁ。
ある時ふと思った。「誰一人取り残されんと みんなが救われますように」という神さんからの祈りを私が聞かなあかんやん。そうやん!やっと気が付いた。みんなでなくても、あの人とこの人と、そこに小さな救いがあれば祈れるやん。そしたら、神さんとの付き合いがまた始まった。孤独ではなくなった。神さんとの双方向の付き合いが始まった。

 小さい頃は神さまがいて不思議に夢をかなえてくれた♪
 やさしい気持ちで目覚めた朝は おとななっても 奇跡はおこるよ♪
 カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の やさしさに包まれたなら きっと♪
 目にうつるすべてのことは メッセージ♪ Yuming

三田教会 神田裕

2025年3月 1日 (土)

強いものが下に 弱いものが上に 子どもはてっぺんに

カトリック施設や学校など、設立理念には必ず「キリスト教精神に則り」などと書かれてあるのだが、なんだかよく分からない。大人から子どもたちへ何か大切なものを伝えようとしているのだろうか。しつけのための信用度を増すために使われる言葉なのだろうか。いや、逆じゃないのか。子どもたちの側、弱きものの側に立って世の中を見つめなおし価値観を見直していくことがイエスの生き方ではなかったのか。

アメリカ、ネブラスカ州に少年の町(Girls and Boys Town)がある。1917 年にエドワード・ジョゼフ・フラナガン神父によって創設された児童自立支援施設だ。「悪い子どもは、いない。ただ悪い環境と、悪い学習があっただけです」と、行き場のない子どもたちを受け入れ、子どもたち自らが自治を行う村へと成長した。

フラナガン神父は、第二次世界大戦後、戦災孤児などへの対策で GHQ から招聘を受け来日した。神戸で佐々木鉄治神父に出会い、少年の町創設を勧め、1948 年に神戸少年の町(Kobe Boys Town)が設立された。「ありがとう、みんな仲良く、社会のためになるように」と創立者が残した言葉によって、奉仕(Kindness)、兄弟愛(Brotherhood)、感謝(Thanks)の三つの柱を大切にしてきた。

フラナガン神父の少年の町に感化され、スペインのオレンセ町に、ヘスス・シルバ・メンデス神父によって、1956 年に少年の町(Ciudad de Los Muchachos)が設立された。「貧しく、弱い人たちこそがのびのび生きられる世界をつくろう」との理念の元に、子どもたちが自治を行うベンポスタ子供共和国へと成長した。ベンポスタ国際サーカス学校を設立し、サーカス団を結成。世界中でこどもサーカスを披露し、「強いものが下に 弱いものが上に 子どもはてっぺんに」のメッセージを世界へ届けてきた。

20 世紀に入り、少年の町として引き継がれてきた「キリスト教精神に則り」はこのベンポスタのメッセージにたどり着いてきたと言ってもいいのではないか。

神戸少年の町(Kobe Boys Town)は今日(3/1)から、児童家庭支援センター(Child Harbor Kobe)がスタートする。「強いものが弱いものを支え、子どもたちの未来をつくる」

さぁ、地域社会へと、飛び出そう!

三田教会 神田裕

2025年2月 1日 (土)

居場所

私を探し回っている人がいると複数の教会から連絡が入った。内心、厄介な感じやなと思った。ある日曜日、三田教会に突然に訪れた人がいた。どうもその人らしい。面識はなかった。小太りで丸坊主。一目見て普通の人じゃないなと思った。

「私はあなたを知らないけど何故私を」「初めてではないです 刑務所で会っています」「でも私のクラスでは見かけたことがないね」「はい、廊下ですれ違ったのです」「えっ?」「配膳の作業をしていた時に刑務官と話していて教誨師の先生がすれ違ったのに気が付かず壁に向かいませんでした。その時は失礼しました」「そうなの?覚えてないけど」「はい、でもその時先生は叱らずにニコッと笑って通り過ぎられたのでした。その笑顔が忘れられなくて」。

あちゃ、それだけで訪ねてくるか?だいたい教誨師は身元を明かさないのに何故どうやって調べてきたのか?ちょっと怖いというか気持ち悪いというか複雑な感じで、でも教会に来たいというので受け入れた。

金銭的援助はしないときっぱりと言った。弁当屋でバイトしながら、神戸からわざわざ電車に乗って毎週通ってきた。日に日に彼の人の好さが見えてきて、教会の人にも受け入れられ、1年後には洗礼を受けた。

ところが、その後はほとんど教会に来ることができなかった。腰痛が酷くて動くこともできないことが原因だった。彼は覚醒剤で8回も刑務所に入っていた。体がボロボロだった。病院に行っても手術ができないということだった。そしてある日を境にピタッと連絡が取れなくなった。また刑務所に戻ったのかと思った。

昨年末、地域精神医学会の集まりで講演をする機会があった。その時に出会った先生が、「あなたのことは T から聞いている」「あ、T はどうしているのですか?また刑務所に戻ったのですか?」「いや、彼は亡くなったと聞いている」「えっ!」。

すぐさま、役所に尋ねたが個人情報なので教えられないと言われ、ケースワーカーの方につないでもらい、状況を知った。家族が引き取らないという遺骨を舞子墓苑まで引き取りに行った。

彼の辿ってきた人生を深く知るにはあまりにも出会いが短かった。でも偶然にこんな形で知ることになり、なんだか必死で私を呼んでいるのだろうなと思ったら、引き取らないわけにはいかなかった。

クリスマスには祭壇前の馬小屋の特等席で“彼”はミサにあずかった。しばらくは香部屋に安置して三田の墓地に入れようと思う。家族の記憶には残らないが、三田教会の記憶には残したい。

彼は居場所を探していたのだな。三田が永遠に彼の居場所となりますように。

三田教会 神田裕

 

2025年1月 1日 (水)

“たかとり”震災語り ⑤ 追悼と新生のはざま

神学生時代を東京で6年過ごし司祭になって大阪に戻るとき、世話になった教会の人たちが送別会を開いてくださった。あるお母さんに「かんちゃん、これから結婚もしないで寂しくないの?大丈夫?」って言われた。続けて、「でもね、二人でいるのに寂しいよりずっといいからね」ってボソッとつぶやかれた。え、どういうことって思った。

1995年1月17日。被災地は孤立し孤独が襲ってきた。たかとり教会は瓦礫となり、そして救援基地となった。毎日たくさんの人々が入れ代わり立ち代わり来てくださり、仮設建物も皆で即席に作り寝泊まりして活躍くださった。寂しくなんかなかった。ただ同じ場所にずっといると心身ともに麻痺してくる。教会を離れるわけにもいかない。時々2,3日部屋に籠って出ない日があった。出たくなかったのだ。しかも月に一度のペースでそんな時がやってくることもあった。食事も殆んど取らずまるで修行僧だ。みんな心配してくれたけど、ほっといてくれたらそれでよかった。

独りになっている時はロクなことを考えない。仲間たちと一緒にいる時の方が寂しくもないし元気だ。でも自分の殻に閉じこもる時間も大切だと思った。心と体が要求したからだ。

“1.17追悼と新生の祈り in たかとり“ 毎年1.17にはたかとり教会で追悼の祈りをする。30年目だ。追悼は寂しさや悲しさを皆で共有するとき。そして新生は共に生きる力をつけるとき。そのはざまには、自分の孤独に引き籠り、自分に向き合う時間が必要だったかと思う。私には月に2,3日の引き籠りが必要だった。自分だけでなく人は皆、家族の中であったとしても所詮孤独で、孤独同士が互いに手をつないで生きているのだと思えば、決して寂しくなんかないのだと思えたからだ。それが新生の祈りだ。

災害後の歩みは人生の歩みそのものと言ってもいいかもしれない。短距離走ではなくてマラソンだ。他の人のペースに翻弄されないように、自分のペースを見つけて只管コツコツと、“出たとこ勝負”に挑むのだ。

三田教会 神田裕

より以前の記事一覧