サンタ教会

2019年6月 1日 (土)

丹波篠山に、、

5月1日から、篠山市は丹波篠山市と名称が変更となりました。10年前に氷上町あたりが丹波市となったことが発端になりちょっと騒動に、その1年後には京都に京丹波町も誕生しました。隣同士が、我こそは「丹波」だと張り合っている感もありますが、元々は広い広い「丹波国」の同じ仲間。これからは「丹波」つながりで共に協力し豊かなまちになっていってもらいたいです。
丹波篠山の○○さん宅で月に一度数人でミサをしています。風光明媚な田園に囲まれたお家で、ミサが終わり玄関の扉を開けると、目の前に丹波富士(高城山)がドンと座っている。戦国時代の山城(八上城)です。この城で、人質とされていた明智光秀の母親(明智牧)が磔になったと言われています。細川ガラシャ(明智玉)の祖母ということになりますか。このことが、本能寺の変へとつながり、ガラシャの非業の最後へとつながっていくのでしょうか。私がこれまで居た大阪カテドラルは細川忠興の屋敷跡に建っています。ここでガラシャは壮絶な最後を遂げました。「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」と。戦国時代の悲しい出来事です。
来年のNHK大河ドラマは明智光秀の生涯です。「丹波」に注目が集まり、それぞれの地域で、よい「まちづくりひとづくり」へとつながって行けばいいですね。
余談ですが、名称変更と言えば、震災10年たった2005年1月17日に、同じ神戸中ブロックにある「カトリック鷹取教会」は「カトリックたかとり教会」へと名前を変えました。震災からの再建が単に復旧ではなく新生であるとの教区の方針に沿って、新たに歩み始めるシンボルとしての変更でした。
新しいぶどう酒は新しい革袋に、、「名」「実」ともに新たにされていきたいですね。

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2019年5月 1日 (水)

ご復活おめでとうございます!

三田教会のみなさま、ご復活おめでとうございます! 受難の主日から聖週間に入り、聖なる3日間を過ごし、そして春の喜びとともにご復活を祝うことになりました。

受難の主日には、枝を掲げて、主のエルサレム入城を迎えました。その枝は聖書の記述からすると本来はナツメヤシですが、みなが掲げたのは、奄美大島の大笠利教会から送って頂いたソテツでした。大島にはたくさんのソテツが生息しています。そのソテツは島の人たちの生活を支えピンチを救ってきたのだそうです。

その昔、江戸時代後期、薩摩藩に収める年貢が米から黒糖に代わりました。米作りには島の土壌が適してなかったのですね。島中の畑や水田はほとんどサトウキビ畑になってしまいます。たくさん作らなくてはならないため山も段々畑になりました。段々畑は、普通は石で縁を固めますが島には石があまりなく、代わりにソテツを植えて段々畑にしました。ソテツは丈夫な根をしっかり張って段々畑を支えたのでした。それでも島の人たちはその黒糖を口にすることはできませんでした。島の人たちの主食はサツマイモでしたが、ソテツはいざというときの食糧にもなりました。ソテツはそのままでは毒ですが、島の人たちは実や幹を刻んで水にさらして天日に干し何度もその作業を繰り返して毒を抜いてでんぷんを取り出し食糧難の時に飢えを凌いだそうです。また鉄分が多い貧しい土壌から工夫をして、島の人たちは泥染めを生み出してきました。古くから伝わる絹織物、大島紬ですね!それも、島の役人以外は着られなかったそうです。そう考えると、受難の主日にソテツを手にするとき、自らの受難を乗り越えてきた島の人たちのことも思い起こしますね。

鉄分の多い島の土壌で育ったソテツは、漢字で蘇鉄と書きます。枯れてしまいそうになる時に鉄くぎを打ち込むと元気を取り戻すと言われているからだそうですよ。くぎを打ち込まれて蘇る、、だれかからイエスの受難と復活みたいですねと言われて、そういえば、、いえいえ、違いますよ!キリストの復活はただの蘇生のことではないですからね。

聖金曜日はピンクムーンでした。4月の満月のことをネイティブアメリカンの人たちはそうよんでいるのだそうです。でも月がピンク色なのではなく、春になって色鮮やかに咲くシバザクラなどの花の色から来ているそうですよ。悲しみに暮れた受難の時が、終わりの時ではなく新たないのちの始まりの時であると、今年はピンクムーンも教えてくれましたね。

そして、今年も復活の日を迎えました。でも、喜べと言われても日常が辛くて喜べないのも私たちですね。辛い人生はなくなることはないのでしょう。だからもっと自分は慰められたい、でも、いま目の前にいるあの人のことを慰めてあげよう。もっと理解されたい、でも、隣にいるあの人のことをちゃんと理解しよう。もっともっと愛されたい、でも、それよりもあの人のことを愛そう。。。きっとその中にこそほんとうの喜びの秘密が隠されているのかもしれませんね。

受難と復活の神秘は、そんな祈りへと、そして喜びへと私たちを導いてくれるのでしょう。

2019年3月 1日 (金)

三田教会ノースエリア

三田教会のエリアはとっても広いですね。篠山、柏原、丹波へと、兵庫県の真ん中を越えてまだ北に延びて、ちょっとした遠足になります。

バレンタインデーの日、雪が降る中、午前中は篠山の○○さん宅で数人が集まりミサとお話しで楽しいひととき。焼き栗いただいておいしかった。午後からは車に乗って遠足に出た。柏原の〇〇さん宅へ。お母さんと三男の息子さんと初めてのご挨拶。ここのお家の敷地をお借りして宣教師の神父さんたちが集会所を建てて拠点としてられたのですね。大阪教区に柏原集会所が20年ほど前まであったのを覚えています。挨拶の後、息子さんが親切に案内くださってcafé Bon Neurへ。柏原で結構老舗の喫茶だそうですが、お店の看板はとても垢抜けていておしゃれな感じ。お店の名前もフランス語。幸せっていう意味なのかな?ここは○○さんのお店。お母さんと一緒に経営してられる。若い頃はサーファーだったそうですよ。そういえばまだその雰囲気が。柏原の駅前にはからくり時計櫓が珍しい。そして、そこから一気に青垣町へ。一部無料の専用道路があって北へスイスイと。たどり着いたのは、散髪屋さん。○○さん宅です。明るく元気なお母さん。しばらくしてお父さんも戻ってきた。今度はムジカ神父のことで話しの花を咲かせましょう。隣の新聞配達所で仕事していたのは娘さん。再び車に乗って今度は、春日局に会いに春日町へ。○○さんのお宅はどこだろう。あたり一帯のお家は何とみな同じ苗字だ。名前は、お福ではないし、困ったな。電話をかけてみたらおじいちゃんが出てきたけど耳が聞こえない。結局お留守でお局さんにはお会いできずまた次回に。最後に、もう一度篠山に戻り、曹洞宗長楽寺へ。1.17にたかとりで一緒にお祈りくださったお坊さんにご挨拶を。1時間以上もおしゃべりして、今度一緒に蕎麦を食べに行く約束をして、丸一日かけた遠足を終え帰途についた。

兵庫各地に点在する三田教会の信者さんたち。遠くてなかなか教会まで来れないけど、みなさんそれぞれの地で、お店やご近所づきあいを通して、町の人たちとよい交流を持ち、まちづくりひとづくりに貢献しておられることでしょう。明るく元気に地域の人たちと交わることこそ、大切な福音宣教ですね。

2018年12月 1日 (土)

ムジカ神父と私

初めてですので自己紹介を。

尼崎生まれの尼崎育ちで、尼っ子。漫画「忍たま乱太郎」作者の尼子騒兵衛は同級生。地元公立の小中高、そして大学へ。唯一のミッションは幼稚園、そして神学校。1988年に司祭となり(司祭生活も今年でちょうど人生の半分で節目の時)、阿倍野、玉造の助任を経て、たかとり教会へ主任として赴任。そして4年後の1995年に阪神淡路大震災。聖堂は全壊し全焼。がれきの片づけから始まり救援基地へ。震災復興のまちづくりの拠点となり現在もNPOたかとりコミュニティセンターとして10の団体が教会敷地内で活動している。2007年に司牧現場から離れ教区本部事務局へ。そしていま三田教会の担当となりました。

両親の結婚は尼崎教会でムジカ神父。幼児洗礼は(ムジカ神父が休暇で帰国のため)助任のシャユー神父に。(私が神学校へ行く直前にシャユー神父は帰天でバトンタッチされた感)。毎年誕生日にはムジカ神父と記念写真。この写真は4歳。私が小学校へ上がる時にムジカ神父はたかとり教会へ赴任(26年後に私が赴任)。私が中学3年の時に三田教会へ赴任(45年後に私が担当)。ムジカ神父が明石に赴任のときから三十数年関わってこられた神戸刑務所宗教教誨師も2000年にバトンタッチ。というわけで、なにかとパリミッション会の影響を受け、なにかとムジカ神父の足跡を歩むような感じでこれまで来ました。

ムジカ神父はフランス人ですがバスク人。いつも素朴で朗らかで明るく、お話し好きワイン好きなムジカ神父。宗教宗派も越えて誰からも愛され続けたムジカ神父。足跡を歩むだけではなく、信仰や人生観も追随したいものです。