三田教会

2025年1月 1日 (水)

“たかとり”震災語り ⑤ 追悼と新生のはざま

神学生時代を東京で6年過ごし司祭になって大阪に戻るとき、世話になった教会の人たちが送別会を開いてくださった。あるお母さんに「かんちゃん、これから結婚もしないで寂しくないの?大丈夫?」って言われた。続けて、「でもね、二人でいるのに寂しいよりずっといいからね」ってボソッとつぶやかれた。え、どういうことって思った。

1995年1月17日。被災地は孤立し孤独が襲ってきた。たかとり教会は瓦礫となり、そして救援基地となった。毎日たくさんの人々が入れ代わり立ち代わり来てくださり、仮設建物も皆で即席に作り寝泊まりして活躍くださった。寂しくなんかなかった。ただ同じ場所にずっといると心身ともに麻痺してくる。教会を離れるわけにもいかない。時々2,3日部屋に籠って出ない日があった。出たくなかったのだ。しかも月に一度のペースでそんな時がやってくることもあった。食事も殆んど取らずまるで修行僧だ。みんな心配してくれたけど、ほっといてくれたらそれでよかった。

独りになっている時はロクなことを考えない。仲間たちと一緒にいる時の方が寂しくもないし元気だ。でも自分の殻に閉じこもる時間も大切だと思った。心と体が要求したからだ。

“1.17追悼と新生の祈り in たかとり“ 毎年1.17にはたかとり教会で追悼の祈りをする。30年目だ。追悼は寂しさや悲しさを皆で共有するとき。そして新生は共に生きる力をつけるとき。そのはざまには、自分の孤独に引き籠り、自分に向き合う時間が必要だったかと思う。私には月に2,3日の引き籠りが必要だった。自分だけでなく人は皆、家族の中であったとしても所詮孤独で、孤独同士が互いに手をつないで生きているのだと思えば、決して寂しくなんかないのだと思えたからだ。それが新生の祈りだ。

災害後の歩みは人生の歩みそのものと言ってもいいかもしれない。短距離走ではなくてマラソンだ。他の人のペースに翻弄されないように、自分のペースを見つけて只管コツコツと、“出たとこ勝負”に挑むのだ。

三田教会 神田裕

2024年12月 1日 (日)

“たかとり”震災語り ④ 神戸少年の町

阪神淡路大震災から 30 年が経とうとしています。神戸少年の町は、建物は一部損壊しましたが幸いにも崩れることなく、子どもたちはスタッフたちが体を張って守り無事でした。水が止まりその確保にスタッフたちは奔走しました。プロパンガスだったので水が復旧してからは風呂を沸かし地域の人たちへも開放しました。神戸中心部は大変でした。全壊した養護施設などの子どもたちを受け入れ共に生活しました。大変な状況の中にあってもお互い協力し、そして多くの人たちからの支援に感謝しました。

手に負えないゴンタな高校生だった T 君は市内の震災救援基地に派遣されました。多くのボランティアの人たちと共に生活し活動しました。皆に愛され、他のボランティアたちを引っ張っていくほどに活躍しました。家庭や社会から疎外されたかのように思っている子どもたちも、何を隠そう、内に秘めたものは自分でも気が付かないくらいに大きな可能性を秘めている。子どもたちの魅力はそこにある!人生をかけて未知の自分探しをする。神戸少年の町の子どもたちはそのスタート地点に立っている。

2024 年クリスマス
神戸少年の町 神田裕


神戸少年の町は来年 3 月に、児童家庭支援センター(CHILD HARBOR KOBE)を垂水区内に開設します。地域の要保護児童や家庭を支援する専門機関です。ソーシャルワーカーや心理士などが支援を行います。昨年7月から、たかとりコミュニティセンター(TCC)内に児童家庭地域支援室を開設し準備を進めてきました。その支援室は今後も神戸少年の町のサテライトとして運営され、多文化対応を視野に入れていきます。聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会とも協働していく予定です。震災30年が経ち、新たなスタート地点に立ちます。

三田教会 神田裕

2024年11月 1日 (金)

“たかとり”震災語り ➂ たかとり救援基地

『大阪教区が目指す阪神大震災からの「再建」計画は、単に地震以前の状態に復旧することではない。キリストの十字架と復活(過越の神秘)の新しい生命に与る「新生」への計画である。』 

(「教会新生への基本方針」 199522日 カトリック大阪大司教区)

30年前の大震災によって全壊焼失した「カトリック鷹取教会」で、偶々教会内で被災した8人と焼け跡のど真ん中での生活が始まった。駆け付けた近所の信徒や友人たちと一緒に「たきび」で暖を取り、「たきび」で狼煙を上げた。狼煙に呼応するかのように全国各地からたくさんのボランティアの人たちが集まり、「たきび」を囲み 「鷹取教会救援基地」がスタートした。

焼け跡の片づけ、公園での炊き出し、地域医療支援、避難場生活支援、仮設生活支援、言葉や文化が違う人たちへの生活支援などなど。集まったボランティアたちが被災地を自分の目で見て確かめて、感じ取っていったものを自由に考え、そして形にしていった。地元地域住民の震災復興会議も始まり、教会ももちろん参加した。

震災1000日目を迎えた日に「たかとり救援基地」と名称を変えた。名実ともに教区が目指す「新生」へと歩み始めたからだ。5年後の2000年には、NPO法人格を取った「たかとりコミュニティセンター」が立ち上がり、10年後の2005年には、教会も「カトリックたかとり教会」と名称を変更した。教区がどこまで想定して「新生」と言ったか分からないが、現場としては、一過性の言葉ではなく、新しい生命に与る「新生」として重く受け止めてきたのは確かだ。

ただ「新生」への歩みはそう容易くはない。時がたてば、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、「いつまでやってるねん」の声は、この30年間、教会内部で幾度となく何回も聞かされ、圧力もかけられてきた。しかし現場はますます進化している。地域あっての教会とNPOだ。教会と地域とNPOがともに肩を並べ「まちづくりひとづくり」に関わることに終わりがあるのか。

「たかとり救援基地」は、裏方として教会と地域とNPOの大切な繋ぎ役をし続けてきた。そして今も、これからも、教区の「新生」への歩みを軸に希望を持ち、挫けることなく前へ進むのだ。

三田教会 神田裕

2024年10月 1日 (火)

初めてのボランティア

今から30年(注:44年)ほど前の正月のことを薄っすらと思い出しました。とある食堂のボランティアに行ったのです。食堂の奥では、おじさんがトントントントンと食材を刻んでいます。大きな鍋から湯気がムクムクと立ち上がって、刻んだ食材をおばさんがポンポンとほうりこんでいます。大きな炊飯器からはご飯の炊ける匂いがしてきます。味噌汁のいい匂いも立ち込めてきました。私は、食堂のテーブルを拭いて、茶碗やお箸、お皿などの準備に取りかかりました。

いよいよ開店です。入口を開けると、もうすでに長蛇の列。外は寒いです。並んでいる人たちの口元から白い息がフーっと出ています。食堂の中に入るとすぐにメガネが白く曇ります。私はレジの係です。お金は先に頂きます。並んだ人たちは次々にポケットからお金を取り出して渡します。出されたお金に応じて、ご飯やおかず、味噌汁を配ります。真ん中あたりで並んでいたヨボヨボのじいさんが先頭まで来ました。ギュッと握った右手の拳が指し出されました。ジッとその拳を見つめました。力の入った右手の拳が少しずつほぐれて、しわしわの手の中から汗で光った100円玉が出てきました。しばらくジッとその100円玉を見つめていました。薄っすらとした記憶の中に、その手の中の100円玉は今でも鮮明に記憶の中に残っています。きっと精一杯、段ボールを集めた報酬だったのでしょう。

初めての釜ヶ崎。食堂に行くまでの道のりは勇気がいりました。体験したことのない不思議な空間で、正直、背筋がゾクッとしました。目を合わさないように小走りで通り抜けました。緊張の中でボランティアをしていました。でも、そのじいさんの右手の拳が少しずつほぐれて行くと同時に、私の心もほぐれて行きました。ボランティアをすることで、人の表面ではなく、人の人生を思うことが出来ました。

2010年 Volo (ウォロ)7・8月号 (No.457) 掲載

三田教会 神田裕

2024年9月 1日 (日)

でたとこ勝負

ピーッ、ピーッ、ピーッ!突然に大きな音が部屋中に鳴り響いた!何が起こったか理解できぬまま、慌てて音が鳴っている警報装置の電源を抜き、壁に付いているその装置を引っ剥がしてしまった。それでも警報音が別のところから鳴り響いている。少し落ち着いて警報音停止のスイッチを押す。やっと止まった。表示の「ガス漏れ」はついたまま。壁に付いていた装置の電源を入れないと消えないようだ。だがまた鳴り出すかもしれないのでそのままにした。どうも誤作動だ。しばらくすると部屋の入り口をノックする音が聞こえた。覗き窓から見ると扉の向こうに武装?した人が立っている。今日は何という日だ。「どなた?」と声を出すと、「セキュリティです」との返事。そっか、警報に連動してきてくれたんだ。部屋に案内し装置を元通りにして一件落着。それにしても突然は慌てふためく。ここ半月前のことだった。

震災後すぐ NHK ラジオの生放送に出た。「神田さんは揺れている時どうしていましたか?」、「布団を被って一言‘あかん!’と叫んでいました」、「神父さんはそういうときはお祈りしないのですか?」、しばらく無言、「‘あかん’の叫びは(神にゆだねる)祈りそのものです!」と苦し紛れに応えた。地震以上にシビアな突然のインタビューだった。

先月8日夕方、日向灘を震源とする地震があった。そして、南海トラフの巨大地震「注意」が発令された。いよいよやってくるか!一気に緊張が高まった。皆は災害時に備えて食料や水を確保しに走った。イベントも中止され電車も止まった。いざという時のために準備する体制がとられた。ただいくら準備していてもいつ何が起こるかは誰にも分からない。また何も起こっていない時から心配して恐怖に慄いていても何も始まらない。

自然災害だけではない。今日明日何が起こるのかはほんとに分からない。いつも突然だ。そして結局いつも‘でたとこ勝負’だ。何があってもきっと乗り越えられる。決して一人ではないので乗り越えられる。そう信じて今をしっかりと生きることが一番の準備だ。

Ecce ancilla Domini. FIAT mihi secundum verbum tuum.

三田教会 神田裕

2024年8月 1日 (木)

“たかとり”震災語り ② いのちの重み

今年も暑い夏が始まった。そしてお盆には、三田教会でも合同慰霊祭が行われる。三田に来てからもたくさんの方たちの葬儀に立ち会ってきた。家族の方たちを通して亡くなった方たちの生きた証の声を聴いてきた。一人ひとりの尊い命が自らの命とも重なっていく。

震災の時、たかとり教会の人たちは多くの家族が住むところを失い、避難生活を余儀なくされた。ただあの地震で亡くなった方はおられなかった。たかとり教会が救援基地として歩み出す背景には、教会の人がみんな生きていたことが大きな励みとなっていた。

震災後しばらくして、普段からお世話になっていた地域の電気屋さんに、救援基地の電気工事をしてもらった時のことだった。「神父さん、ぼく毎晩寂しいねん。一緒に寝てくれへんか」と言ってきたので、「何を冗談言うてるの。がんばりや」と言って帰した。1週間もしないうちにあろうことか彼はお店の中で感電自殺を図った。地震の時、側で寝ている奥さんを亡くされてずっと孤独から抜け出せなかった。‘冗談’と言って話しを聞かなかった自分自身を悔やんだ。

震災10年少したって、長田で靴の工場を経営していたある人が、「私、実は韓国で洗礼を受けているので教会に来てもいいですか」と言われた。「もちろんです」と応えた。プレハブが立ち並ぶ救援基地の解体を始めていたころ、キリスト像の横の2階建てのプレハブも壁を取り外し始め、ほぼ骨組みだけになって、全部解体する日の朝のことだった。家族の方から連絡があった。「ほんとうに申し訳ないです。父親がプレハブの2階で首を吊って亡くなりました」と言われ驚いた。警察と一緒に引き取ったと。私の2階の部屋からキリスト像を挟んでちょうど向かい側。そばで寝ていたのに全く気が付かなかった。彼は借金を重ね重ねて社員に給与を払い続けとうとう限界が来たのだと家族は言った。死ぬ場所を探すために教会に来ていたのか。キリスト像の背中を見ながら命を絶った。

震災は多くの人の命を奪った。支えることが出来たはずの命も周りの無関心の中でその命を絶った。命の重みと向き合いながらの日々が続いている。

三田教会 神田裕
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2024年7月 1日 (月)

“たかとり”震災語り ① 奇跡のキリスト像

「キリスト像が火を止めましたね。奇跡ですね!」
「いいえ、火を止めたのは人間です」
「キリスト像は燃えなかったですね。奇跡ですね!」
「いいえ、石膏なのでもちろん燃えないです」
「キリスト像は倒れなかったですね。奇跡ですね!」
「いいえ、土台をしっかりと作っていたからです」

今年も半年が過ぎた。そしてあと半年で、阪神淡路大震災から30年を迎える。

あの日、“たかとり”に殺到したマスメディアのお目当ては、焼け跡に残った「奇跡のキリスト像」だった。テレビ、新聞、雑誌などなど。いくら否定しても「奇跡のキリスト像」は発信され続けた。ふと思った。世間の目から見た教会はそうなのかもしれないと。自ら情けなくも思った。悔しかったので、キリスト像にヘルメットをかぶせた。するとカトリック系の雑誌がヘルメットのキリスト像を表紙にした。すかさず匿名の抗議の電話がかかってきた。「なんということをするのか!」と。被災地の様子を聞くこともなくただお叱りの電話。大真面目で反論した。「もし今キリストさんがここにいてはったら、こんなところでボォーッと突っ立ってへんでしょ。ヘルメットかぶってみんなと一緒に働いてはるんとちゃいますか!」と。教会は人の痛みはどうでもいいのか?やりきれない気持ちを持ちながら、震災の日々が始まった。

焼け跡のど真ん中で夜通したき火を焚く“たかとり”に、どこからともなく多くのボランティアの人たちが集まった。教会は被災地の救援拠点となった。避難場にいる人たちの生活支援、公園での炊き出し。ボランティアの人たちへの食事支援をするボランティアも集まり、自分たちの寝泊まりする建物もつくり、まちの保健室もつくり、多言語で情報発信する放送局もつくり、灰色の町にペンキで絵を描いてきた。
そして30年たとうとしている“たかとり”は、日常多くの人の集まる多文化発信拠点として今も進化し続け、ひとづくりまちづくりに貢献している。

キリスト像は今も同じ場所に立っている。みんなここに集まっておいでと言わんばかりに、両手を広げて立っている。キリスト像は奇跡を起こし続けている。

三田教会 神田裕

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2024年6月 1日 (土)

謙遜(けんそん)と謙虚(けんきょ)

謙遜と謙虚の違いがよく分からなくて調べてみた。英語ではhumilityでほぼ同じだ。

「あなた素敵ね。可愛いね。格好いいね」って言われた時、あなたならどう応える?「いえいえとんでもないです」と応えるのは謙遜な人。「ありがとう」とまず言って相手の気持ちを受け入れるのは謙虚な人。謙遜とは自分の能力や価値などを下げて自身を評価すること。謙虚とは相手の気持ちをそのまま受け入れることで、自分の能力や価値などは下げないこと。

謙虚とは自分というものをよく知ったうえで、素直に他者から学ぼうとする気持ちがあることで、好奇心と他者への関心と尊敬があり、そこから向上心が生まれてくるとあった。私たちの社会の中で良好なコミュニケーションをとり自分を磨くためには謙虚がよさそうですね。

「謙遜は世界と教会における平和の源」という日本語訳のタイトルで先月、教皇メッセージが発せられていた。その中で、ラテン語のhumilis(謙遜)という言葉はhumus(土)から来ていると知った。英語のhumilityもそこから来るのだろう。灰の水曜日には「あなたは塵(ちり)であり塵(ちり)にかえっていくのです」の聖書の言葉で頭に灰を受ける。謙遜のシンボルだ。

山上の説教で「心の貧しい人は幸い」とあるのも、マリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」「身分の低いこの主のはしためにも、目をとめてくださった」という祈りも、イエスがエルサレムではなくナザレで生まれたことも、十字架上でなくなったことも、humilisを謙遜と訳する所以だろう。謙遜はキリスト教のすべてだと言える。

この社会の中で人との良好なコミュニケーションには謙虚が必要で、神との良好なコミュニケーションには謙遜が必要ということになる。なぜ謙遜に神とのコミュニケーションを取ろうとするのか、それは私たち人類すべての平和と幸福を願うからに他ならない。謙虚に宗教を語りながらも、謙遜に神とのコミュニケーションが取れないところには、必ずと言っていいほど、争いが生まれるからだ。

三田教会 神田裕

2024年5月 1日 (水)

絶滅危惧種

生きとし生きるものすべては多様性に満ちている。微生物、植物、動物で大きく分けて3種類だが、細かく分けると、分かっているだけで175万種。まだ発見されていない生き物を含めるとなんと3000万種以上にもなるという。なんと多様な生物が存在しているのだろう。動物に分類されている中の70%は昆虫たちだ。寝室に入ってくる虫たちはちょっと苦手だけれど、植物たちと昆虫たちは持ちつ持たれつの絶妙な関係で共存している。この地球にすむすべての生き物は絶妙なバランスで共存している。

6600万年前に巨大隕石の衝突で恐竜たちも含め生き物がほぼ絶滅したとされているが、それ以降も様々な理由で絶滅の危機を迎えてきた。そして今、6度目の生物絶滅の危機に突入している言われている。原因は、ほぼ私たち人間の生産活動にあると言われる。土地の開発や汚染、乱獲や密猟、地球温暖化や気候変動などなど。現在42000種ほどの生き物が絶滅の危機にあるという。

例えば狼。害獣なので絶滅させた方がいいという極端な取り組みをしている地域もある。実際に狼を根絶したところでは大型の草食動物が増え森林が無くなってしまったという極端な例も聞く。聖書の中には、羊を守る良い羊飼いのたとえなどで狼と羊が登場するので、何かと狼は悪者のイメージがあるが、何も羊を狙うのは狼だけではない。その狼とは、多くの弱きものから搾取する一部の力を持った者たちのことだろう。

自然からの搾取だけでなく、戦争によって共食いをしている人間は、兵器によって自らも絶滅の危機に追い込んでいるようにも思える。実は、人間こそ一番の絶滅危惧種なのかも知れない。

さて、ところで、神父も絶滅危惧種に含まれていると聞いたが、本当か?

三田教会 神田裕

2024年4月 1日 (月)

終わり方さがしは生き方さがし

桜は《散る》 梅は《こぼれる》 菊は《舞う》 牡丹は《崩れる》 椿は《落ちる》 朝顔は《しぼむ》 紫陽花は《しがみつく》などなど、花の終わり方はそのあり方を見てさまざまな言葉に表現される。

「花は散り際が美しい」と利休はいう。完全無欠を好まず、完璧を崩すことで、わびの境地へと導く。無駄なものを削りながら、最後に残るのは素の自分。慎ましく質素なものの中に奥深さや豊かさなどを見る。この時代にあって価値を転換、破壊して新たな価値を生み出す。それが茶の湯の世界ということか。利休の最期は、切腹を命じられ、権力者に対峙して散っていく。そして茶の湯は永ごうの命を得ることとなたっと。

完璧なまでに積み重ねられた掟の中にあって、最後に残るはこの掟。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして隣人を自分のように愛しなさい」。自己の完全無欠ではなく、完璧さでもなく、無駄なものを削りながら、貧しさの中に真理を見出し、与えられたいのちに気づく。「新しいぶどう酒は新しい革袋に」。この時代にあって価値を転換、破壊して新たな価値を生み出す。権力者によって十字架につけられ、死ぬことによって復活のいのちへと導かれる。死からいのちへと、パンとぶどう酒の中に永遠のいのちを得る。

茶の湯は仏の教えに悟りを得るが、戦国の世にあって、キリストの教えはその中に見え隠れするのではと勝手に妄想する。道具から空間、そして人そのものへと、そのあり方を追求する。日本文化の中にキリスト教は馴染みにくいとされるが、果たしてそうなのか。

終わり方さがしは生き方さがし。あなたの終わり方は何とする。

2024年、主のご復活おめでとうございます。

三田教会 神田裕

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