三田教会

2025年4月 1日 (火)

小さい頃は神さまがいて不思議に夢をかなえてくれた♪

「ひろし、お祈りしようか」。幼い頃のある日、母親が突然に言い出した。「雨が長いこと降らんと困ってはる人がいっぱいいてはる 雨が降るように一緒にお祈りしよう 神さんに頼んだら降るかも知れへん」と、一緒にお祈りをした。そして翌日、母親が、「ひろし、すごいなぁ!やっぱりひろしのお祈りは神さんよう聞いてくれはるわ!」「え、ほんま?」。雨が降ったのだった。ビックリするやら嬉しいやらで大騒ぎだった。ただ降り出した雨は、今度は大雨となり、川が決壊するほどになった。「あかん、お祈りちょっとききすぎたなぁ」。

今にしてみれば、偶然、雨の降る前の日にお祈りしただけの話しなのだが、それでも私にとっては祈りの原体験となった。つまり、世の中の出来事に目を向けるという原体験となった。

いつどこで何があったのかと今回調べてみた。ちゃんとあった。東京大渇水だ。東京砂漠ともいわれるほどの災害だった。1960年代初めから3年半もの大渇水で、水資源開発など急ピッチで進めたとある。特に1964年は深刻だった。8月中半には節水目標が50%となる。そして、8月20日に水源地に待望の大雨が降るとあり、大渇水もようやく一息つくことになる。私が幼稚園に通っていた時期だ。前日の8月19日は私の祈りの原体験の日ということになるかな。

「ひろしのお祈りは神さんちゃんと聞いてくれはる」。そこから神さんとの付き合いが始まった。みんなと仲良くなりたいと思ったら仲良くなれた。でも、大人になるに従って、神さん何も聞いてくれへんようになった。ほんまに何も聞いてくれへん。孤独になってきた。あかんなぁ。
ある時ふと思った。「誰一人取り残されんと みんなが救われますように」という神さんからの祈りを私が聞かなあかんやん。そうやん!やっと気が付いた。みんなでなくても、あの人とこの人と、そこに小さな救いがあれば祈れるやん。そしたら、神さんとの付き合いがまた始まった。孤独ではなくなった。神さんとの双方向の付き合いが始まった。

 小さい頃は神さまがいて不思議に夢をかなえてくれた♪
 やさしい気持ちで目覚めた朝は おとななっても 奇跡はおこるよ♪
 カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の やさしさに包まれたなら きっと♪
 目にうつるすべてのことは メッセージ♪ Yuming

三田教会 神田裕

2025年3月 1日 (土)

強いものが下に 弱いものが上に 子どもはてっぺんに

カトリック施設や学校など、設立理念には必ず「キリスト教精神に則り」などと書かれてあるのだが、なんだかよく分からない。大人から子どもたちへ何か大切なものを伝えようとしているのだろうか。しつけのための信用度を増すために使われる言葉なのだろうか。いや、逆じゃないのか。子どもたちの側、弱きものの側に立って世の中を見つめなおし価値観を見直していくことがイエスの生き方ではなかったのか。

アメリカ、ネブラスカ州に少年の町(Girls and Boys Town)がある。1917 年にエドワード・ジョゼフ・フラナガン神父によって創設された児童自立支援施設だ。「悪い子どもは、いない。ただ悪い環境と、悪い学習があっただけです」と、行き場のない子どもたちを受け入れ、子どもたち自らが自治を行う村へと成長した。

フラナガン神父は、第二次世界大戦後、戦災孤児などへの対策で GHQ から招聘を受け来日した。神戸で佐々木鉄治神父に出会い、少年の町創設を勧め、1948 年に神戸少年の町(Kobe Boys Town)が設立された。「ありがとう、みんな仲良く、社会のためになるように」と創立者が残した言葉によって、奉仕(Kindness)、兄弟愛(Brotherhood)、感謝(Thanks)の三つの柱を大切にしてきた。

フラナガン神父の少年の町に感化され、スペインのオレンセ町に、ヘスス・シルバ・メンデス神父によって、1956 年に少年の町(Ciudad de Los Muchachos)が設立された。「貧しく、弱い人たちこそがのびのび生きられる世界をつくろう」との理念の元に、子どもたちが自治を行うベンポスタ子供共和国へと成長した。ベンポスタ国際サーカス学校を設立し、サーカス団を結成。世界中でこどもサーカスを披露し、「強いものが下に 弱いものが上に 子どもはてっぺんに」のメッセージを世界へ届けてきた。

20 世紀に入り、少年の町として引き継がれてきた「キリスト教精神に則り」はこのベンポスタのメッセージにたどり着いてきたと言ってもいいのではないか。

神戸少年の町(Kobe Boys Town)は今日(3/1)から、児童家庭支援センター(Child Harbor Kobe)がスタートする。「強いものが弱いものを支え、子どもたちの未来をつくる」

さぁ、地域社会へと、飛び出そう!

三田教会 神田裕

2025年2月 1日 (土)

居場所

私を探し回っている人がいると複数の教会から連絡が入った。内心、厄介な感じやなと思った。ある日曜日、三田教会に突然に訪れた人がいた。どうもその人らしい。面識はなかった。小太りで丸坊主。一目見て普通の人じゃないなと思った。

「私はあなたを知らないけど何故私を」「初めてではないです 刑務所で会っています」「でも私のクラスでは見かけたことがないね」「はい、廊下ですれ違ったのです」「えっ?」「配膳の作業をしていた時に刑務官と話していて教誨師の先生がすれ違ったのに気が付かず壁に向かいませんでした。その時は失礼しました」「そうなの?覚えてないけど」「はい、でもその時先生は叱らずにニコッと笑って通り過ぎられたのでした。その笑顔が忘れられなくて」。

あちゃ、それだけで訪ねてくるか?だいたい教誨師は身元を明かさないのに何故どうやって調べてきたのか?ちょっと怖いというか気持ち悪いというか複雑な感じで、でも教会に来たいというので受け入れた。

金銭的援助はしないときっぱりと言った。弁当屋でバイトしながら、神戸からわざわざ電車に乗って毎週通ってきた。日に日に彼の人の好さが見えてきて、教会の人にも受け入れられ、1年後には洗礼を受けた。

ところが、その後はほとんど教会に来ることができなかった。腰痛が酷くて動くこともできないことが原因だった。彼は覚醒剤で8回も刑務所に入っていた。体がボロボロだった。病院に行っても手術ができないということだった。そしてある日を境にピタッと連絡が取れなくなった。また刑務所に戻ったのかと思った。

昨年末、地域精神医学会の集まりで講演をする機会があった。その時に出会った先生が、「あなたのことは T から聞いている」「あ、T はどうしているのですか?また刑務所に戻ったのですか?」「いや、彼は亡くなったと聞いている」「えっ!」。

すぐさま、役所に尋ねたが個人情報なので教えられないと言われ、ケースワーカーの方につないでもらい、状況を知った。家族が引き取らないという遺骨を舞子墓苑まで引き取りに行った。

彼の辿ってきた人生を深く知るにはあまりにも出会いが短かった。でも偶然にこんな形で知ることになり、なんだか必死で私を呼んでいるのだろうなと思ったら、引き取らないわけにはいかなかった。

クリスマスには祭壇前の馬小屋の特等席で“彼”はミサにあずかった。しばらくは香部屋に安置して三田の墓地に入れようと思う。家族の記憶には残らないが、三田教会の記憶には残したい。

彼は居場所を探していたのだな。三田が永遠に彼の居場所となりますように。

三田教会 神田裕

 

2025年1月 1日 (水)

“たかとり”震災語り ⑤ 追悼と新生のはざま

神学生時代を東京で6年過ごし司祭になって大阪に戻るとき、世話になった教会の人たちが送別会を開いてくださった。あるお母さんに「かんちゃん、これから結婚もしないで寂しくないの?大丈夫?」って言われた。続けて、「でもね、二人でいるのに寂しいよりずっといいからね」ってボソッとつぶやかれた。え、どういうことって思った。

1995年1月17日。被災地は孤立し孤独が襲ってきた。たかとり教会は瓦礫となり、そして救援基地となった。毎日たくさんの人々が入れ代わり立ち代わり来てくださり、仮設建物も皆で即席に作り寝泊まりして活躍くださった。寂しくなんかなかった。ただ同じ場所にずっといると心身ともに麻痺してくる。教会を離れるわけにもいかない。時々2,3日部屋に籠って出ない日があった。出たくなかったのだ。しかも月に一度のペースでそんな時がやってくることもあった。食事も殆んど取らずまるで修行僧だ。みんな心配してくれたけど、ほっといてくれたらそれでよかった。

独りになっている時はロクなことを考えない。仲間たちと一緒にいる時の方が寂しくもないし元気だ。でも自分の殻に閉じこもる時間も大切だと思った。心と体が要求したからだ。

“1.17追悼と新生の祈り in たかとり“ 毎年1.17にはたかとり教会で追悼の祈りをする。30年目だ。追悼は寂しさや悲しさを皆で共有するとき。そして新生は共に生きる力をつけるとき。そのはざまには、自分の孤独に引き籠り、自分に向き合う時間が必要だったかと思う。私には月に2,3日の引き籠りが必要だった。自分だけでなく人は皆、家族の中であったとしても所詮孤独で、孤独同士が互いに手をつないで生きているのだと思えば、決して寂しくなんかないのだと思えたからだ。それが新生の祈りだ。

災害後の歩みは人生の歩みそのものと言ってもいいかもしれない。短距離走ではなくてマラソンだ。他の人のペースに翻弄されないように、自分のペースを見つけて只管コツコツと、“出たとこ勝負”に挑むのだ。

三田教会 神田裕

2024年12月 1日 (日)

“たかとり”震災語り ④ 神戸少年の町

阪神淡路大震災から 30 年が経とうとしています。神戸少年の町は、建物は一部損壊しましたが幸いにも崩れることなく、子どもたちはスタッフたちが体を張って守り無事でした。水が止まりその確保にスタッフたちは奔走しました。プロパンガスだったので水が復旧してからは風呂を沸かし地域の人たちへも開放しました。神戸中心部は大変でした。全壊した養護施設などの子どもたちを受け入れ共に生活しました。大変な状況の中にあってもお互い協力し、そして多くの人たちからの支援に感謝しました。

手に負えないゴンタな高校生だった T 君は市内の震災救援基地に派遣されました。多くのボランティアの人たちと共に生活し活動しました。皆に愛され、他のボランティアたちを引っ張っていくほどに活躍しました。家庭や社会から疎外されたかのように思っている子どもたちも、何を隠そう、内に秘めたものは自分でも気が付かないくらいに大きな可能性を秘めている。子どもたちの魅力はそこにある!人生をかけて未知の自分探しをする。神戸少年の町の子どもたちはそのスタート地点に立っている。

2024 年クリスマス
神戸少年の町 神田裕


神戸少年の町は来年 3 月に、児童家庭支援センター(CHILD HARBOR KOBE)を垂水区内に開設します。地域の要保護児童や家庭を支援する専門機関です。ソーシャルワーカーや心理士などが支援を行います。昨年7月から、たかとりコミュニティセンター(TCC)内に児童家庭地域支援室を開設し準備を進めてきました。その支援室は今後も神戸少年の町のサテライトとして運営され、多文化対応を視野に入れていきます。聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会とも協働していく予定です。震災30年が経ち、新たなスタート地点に立ちます。

三田教会 神田裕

2024年11月 1日 (金)

“たかとり”震災語り ➂ たかとり救援基地

『大阪教区が目指す阪神大震災からの「再建」計画は、単に地震以前の状態に復旧することではない。キリストの十字架と復活(過越の神秘)の新しい生命に与る「新生」への計画である。』 

(「教会新生への基本方針」 199522日 カトリック大阪大司教区)

30年前の大震災によって全壊焼失した「カトリック鷹取教会」で、偶々教会内で被災した8人と焼け跡のど真ん中での生活が始まった。駆け付けた近所の信徒や友人たちと一緒に「たきび」で暖を取り、「たきび」で狼煙を上げた。狼煙に呼応するかのように全国各地からたくさんのボランティアの人たちが集まり、「たきび」を囲み 「鷹取教会救援基地」がスタートした。

焼け跡の片づけ、公園での炊き出し、地域医療支援、避難場生活支援、仮設生活支援、言葉や文化が違う人たちへの生活支援などなど。集まったボランティアたちが被災地を自分の目で見て確かめて、感じ取っていったものを自由に考え、そして形にしていった。地元地域住民の震災復興会議も始まり、教会ももちろん参加した。

震災1000日目を迎えた日に「たかとり救援基地」と名称を変えた。名実ともに教区が目指す「新生」へと歩み始めたからだ。5年後の2000年には、NPO法人格を取った「たかとりコミュニティセンター」が立ち上がり、10年後の2005年には、教会も「カトリックたかとり教会」と名称を変更した。教区がどこまで想定して「新生」と言ったか分からないが、現場としては、一過性の言葉ではなく、新しい生命に与る「新生」として重く受け止めてきたのは確かだ。

ただ「新生」への歩みはそう容易くはない。時がたてば、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、「いつまでやってるねん」の声は、この30年間、教会内部で幾度となく何回も聞かされ、圧力もかけられてきた。しかし現場はますます進化している。地域あっての教会とNPOだ。教会と地域とNPOがともに肩を並べ「まちづくりひとづくり」に関わることに終わりがあるのか。

「たかとり救援基地」は、裏方として教会と地域とNPOの大切な繋ぎ役をし続けてきた。そして今も、これからも、教区の「新生」への歩みを軸に希望を持ち、挫けることなく前へ進むのだ。

三田教会 神田裕

2024年10月 1日 (火)

初めてのボランティア

今から30年(注:44年)ほど前の正月のことを薄っすらと思い出しました。とある食堂のボランティアに行ったのです。食堂の奥では、おじさんがトントントントンと食材を刻んでいます。大きな鍋から湯気がムクムクと立ち上がって、刻んだ食材をおばさんがポンポンとほうりこんでいます。大きな炊飯器からはご飯の炊ける匂いがしてきます。味噌汁のいい匂いも立ち込めてきました。私は、食堂のテーブルを拭いて、茶碗やお箸、お皿などの準備に取りかかりました。

いよいよ開店です。入口を開けると、もうすでに長蛇の列。外は寒いです。並んでいる人たちの口元から白い息がフーっと出ています。食堂の中に入るとすぐにメガネが白く曇ります。私はレジの係です。お金は先に頂きます。並んだ人たちは次々にポケットからお金を取り出して渡します。出されたお金に応じて、ご飯やおかず、味噌汁を配ります。真ん中あたりで並んでいたヨボヨボのじいさんが先頭まで来ました。ギュッと握った右手の拳が指し出されました。ジッとその拳を見つめました。力の入った右手の拳が少しずつほぐれて、しわしわの手の中から汗で光った100円玉が出てきました。しばらくジッとその100円玉を見つめていました。薄っすらとした記憶の中に、その手の中の100円玉は今でも鮮明に記憶の中に残っています。きっと精一杯、段ボールを集めた報酬だったのでしょう。

初めての釜ヶ崎。食堂に行くまでの道のりは勇気がいりました。体験したことのない不思議な空間で、正直、背筋がゾクッとしました。目を合わさないように小走りで通り抜けました。緊張の中でボランティアをしていました。でも、そのじいさんの右手の拳が少しずつほぐれて行くと同時に、私の心もほぐれて行きました。ボランティアをすることで、人の表面ではなく、人の人生を思うことが出来ました。

2010年 Volo (ウォロ)7・8月号 (No.457) 掲載

三田教会 神田裕

2024年9月 1日 (日)

でたとこ勝負

ピーッ、ピーッ、ピーッ!突然に大きな音が部屋中に鳴り響いた!何が起こったか理解できぬまま、慌てて音が鳴っている警報装置の電源を抜き、壁に付いているその装置を引っ剥がしてしまった。それでも警報音が別のところから鳴り響いている。少し落ち着いて警報音停止のスイッチを押す。やっと止まった。表示の「ガス漏れ」はついたまま。壁に付いていた装置の電源を入れないと消えないようだ。だがまた鳴り出すかもしれないのでそのままにした。どうも誤作動だ。しばらくすると部屋の入り口をノックする音が聞こえた。覗き窓から見ると扉の向こうに武装?した人が立っている。今日は何という日だ。「どなた?」と声を出すと、「セキュリティです」との返事。そっか、警報に連動してきてくれたんだ。部屋に案内し装置を元通りにして一件落着。それにしても突然は慌てふためく。ここ半月前のことだった。

震災後すぐ NHK ラジオの生放送に出た。「神田さんは揺れている時どうしていましたか?」、「布団を被って一言‘あかん!’と叫んでいました」、「神父さんはそういうときはお祈りしないのですか?」、しばらく無言、「‘あかん’の叫びは(神にゆだねる)祈りそのものです!」と苦し紛れに応えた。地震以上にシビアな突然のインタビューだった。

先月8日夕方、日向灘を震源とする地震があった。そして、南海トラフの巨大地震「注意」が発令された。いよいよやってくるか!一気に緊張が高まった。皆は災害時に備えて食料や水を確保しに走った。イベントも中止され電車も止まった。いざという時のために準備する体制がとられた。ただいくら準備していてもいつ何が起こるかは誰にも分からない。また何も起こっていない時から心配して恐怖に慄いていても何も始まらない。

自然災害だけではない。今日明日何が起こるのかはほんとに分からない。いつも突然だ。そして結局いつも‘でたとこ勝負’だ。何があってもきっと乗り越えられる。決して一人ではないので乗り越えられる。そう信じて今をしっかりと生きることが一番の準備だ。

Ecce ancilla Domini. FIAT mihi secundum verbum tuum.

三田教会 神田裕

2024年8月 1日 (木)

“たかとり”震災語り ② いのちの重み

今年も暑い夏が始まった。そしてお盆には、三田教会でも合同慰霊祭が行われる。三田に来てからもたくさんの方たちの葬儀に立ち会ってきた。家族の方たちを通して亡くなった方たちの生きた証の声を聴いてきた。一人ひとりの尊い命が自らの命とも重なっていく。

震災の時、たかとり教会の人たちは多くの家族が住むところを失い、避難生活を余儀なくされた。ただあの地震で亡くなった方はおられなかった。たかとり教会が救援基地として歩み出す背景には、教会の人がみんな生きていたことが大きな励みとなっていた。

震災後しばらくして、普段からお世話になっていた地域の電気屋さんに、救援基地の電気工事をしてもらった時のことだった。「神父さん、ぼく毎晩寂しいねん。一緒に寝てくれへんか」と言ってきたので、「何を冗談言うてるの。がんばりや」と言って帰した。1週間もしないうちにあろうことか彼はお店の中で感電自殺を図った。地震の時、側で寝ている奥さんを亡くされてずっと孤独から抜け出せなかった。‘冗談’と言って話しを聞かなかった自分自身を悔やんだ。

震災10年少したって、長田で靴の工場を経営していたある人が、「私、実は韓国で洗礼を受けているので教会に来てもいいですか」と言われた。「もちろんです」と応えた。プレハブが立ち並ぶ救援基地の解体を始めていたころ、キリスト像の横の2階建てのプレハブも壁を取り外し始め、ほぼ骨組みだけになって、全部解体する日の朝のことだった。家族の方から連絡があった。「ほんとうに申し訳ないです。父親がプレハブの2階で首を吊って亡くなりました」と言われ驚いた。警察と一緒に引き取ったと。私の2階の部屋からキリスト像を挟んでちょうど向かい側。そばで寝ていたのに全く気が付かなかった。彼は借金を重ね重ねて社員に給与を払い続けとうとう限界が来たのだと家族は言った。死ぬ場所を探すために教会に来ていたのか。キリスト像の背中を見ながら命を絶った。

震災は多くの人の命を奪った。支えることが出来たはずの命も周りの無関心の中でその命を絶った。命の重みと向き合いながらの日々が続いている。

三田教会 神田裕
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2024年7月 1日 (月)

“たかとり”震災語り ① 奇跡のキリスト像

「キリスト像が火を止めましたね。奇跡ですね!」
「いいえ、火を止めたのは人間です」
「キリスト像は燃えなかったですね。奇跡ですね!」
「いいえ、石膏なのでもちろん燃えないです」
「キリスト像は倒れなかったですね。奇跡ですね!」
「いいえ、土台をしっかりと作っていたからです」

今年も半年が過ぎた。そしてあと半年で、阪神淡路大震災から30年を迎える。

あの日、“たかとり”に殺到したマスメディアのお目当ては、焼け跡に残った「奇跡のキリスト像」だった。テレビ、新聞、雑誌などなど。いくら否定しても「奇跡のキリスト像」は発信され続けた。ふと思った。世間の目から見た教会はそうなのかもしれないと。自ら情けなくも思った。悔しかったので、キリスト像にヘルメットをかぶせた。するとカトリック系の雑誌がヘルメットのキリスト像を表紙にした。すかさず匿名の抗議の電話がかかってきた。「なんということをするのか!」と。被災地の様子を聞くこともなくただお叱りの電話。大真面目で反論した。「もし今キリストさんがここにいてはったら、こんなところでボォーッと突っ立ってへんでしょ。ヘルメットかぶってみんなと一緒に働いてはるんとちゃいますか!」と。教会は人の痛みはどうでもいいのか?やりきれない気持ちを持ちながら、震災の日々が始まった。

焼け跡のど真ん中で夜通したき火を焚く“たかとり”に、どこからともなく多くのボランティアの人たちが集まった。教会は被災地の救援拠点となった。避難場にいる人たちの生活支援、公園での炊き出し。ボランティアの人たちへの食事支援をするボランティアも集まり、自分たちの寝泊まりする建物もつくり、まちの保健室もつくり、多言語で情報発信する放送局もつくり、灰色の町にペンキで絵を描いてきた。
そして30年たとうとしている“たかとり”は、日常多くの人の集まる多文化発信拠点として今も進化し続け、ひとづくりまちづくりに貢献している。

キリスト像は今も同じ場所に立っている。みんなここに集まっておいでと言わんばかりに、両手を広げて立っている。キリスト像は奇跡を起こし続けている。

三田教会 神田裕

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