三田教会

2026年4月 1日 (水)

三田教会再編プロジェクト

昨年 4 月1日から始まった三田教会再編計画(プロジェクト)は3月19日に建物引き渡しがあり、まずは信徒館、司祭館が完成しました。皆さま、ご協力ありがとうございました。

振り返れば、1946年頃からパリミッション会の神父たちやシスターたちが病院訪問などを通して三田周辺で福音宣教の種を蒔いてこられました。しだいに三田の地に教会を建てる気運が高まり、1952年5月 11 日に聖堂が献堂され、この屋敷町に福音宣教の拠点がスタートしました。三田藩の家老の屋敷跡をそのまま使い、司祭館や門構えにその風情を残しながら使用してきました。

しかし老朽化した建物を維持するのは難しく、これまでも教区の力を借りていくつかの建物の撤去はしてきました。敷地内には幼稚園の園舎もあり教会の集会所としても使用してきましたが、閉園の後、やはり老朽化した建物を撤去することになり、仮設のプレハブを信徒館として使用してきました。その頃から、将来に向けて三田教会の再編計画はスタートしたのですが、中々まとまらず、資金面での工面なども難しく前へ進めることができずに20数年ほどが過ぎていきました。数年前に三田教会のために資金を残してくださった方がおられ、そして教区からの勧めもあって、ようやく再編への一歩を踏み出すことができました。

信徒館、司祭館を新しく建てる計画は、皆様のご支援もあり、順調に進められてきました。しかし、再編計画はまだ道半ばです。旧建物を解体し、そこへ新たに駐車場を作ります。屋敷として使われてきた建物はすべて壊すのではなく、門構えや蔵などは保存する予定です。継続してプロジェクトを進めて行くにはまだまだ資金が不足しています。何とか工面していかなければなりません。

この三田の地に福音宣教の種が蒔かれ始めてちょうど80年。大きな節目を迎えています。建物のことだけではなく、地域社会と共に、ひとづくりまちづくりに三田教会がどんな役割を果たしていくのか、現在、そして未来へと引き継がれて行くことを願ってやみません。

三田教会 神田裕

2026年3月 1日 (日)

りくりゅう

灰の水曜日(今年は2/18)から今年も四旬節が始まりました。復活祭(今年は4/5)までの40日間、祈り、節制と回心(主に立ち返る)につとめます。それはイエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来します。その時“悪魔”がイエスを「誘惑」します。悪魔と人格化されていますが、人間を神から引き離そうとする力のことです。

聖書(新約)はギリシャ語で書かれています。「誘惑」のギリシャ語原文は“peirasmos”です。ペイラスモスと発音します。身近な意味では「テストする」ということになりますか。聖書の中では二つの意味で使われています。一つは「誘惑」として、そしてもう一つは「試練」としてです。人生の歩みの中で苦境に立たされた時に、その出来事を「誘惑“peirasmos”」として受け止めるのか、「試練“peirasmos”」として受け止めるのかで未来は大きく変わっていきそうです。

イタリアはミラノとコルティナで冬のオリンピックが開催されていました。特に興味もなくテレビも見ていなかったのですが、ニュースで「大逆転の金メダル」と騒がれていたので何気にネットでみました。フィギュアスケート ペアのことでした。最後の演技が映し出されていました。解説の方の語り口にもよったのですが、画面にくぎ付けになっていました。私みたいな素人が俄かに見ても「すごいな!」と涙が止まらず感動してしまいました。二人は一体となっていました。

前日の演技では彼(りゅう)が失敗をして5位となったそうですね。その日の演技を終えてから彼は意気消沈し言葉もなくずっと涙し「これですべては終わった」と思っていたそうです。いつもは力強く引っ張る側であった彼の初めてのこの弱音に、彼女(りく)も戸惑ったことでしょう。次の日の朝、彼女は 「今日はメダルのためではなく あなたのために滑るよ」と決意の一言を発した。その一言が、彼の中で共振し、「互いのために滑ろう」とやっと声に出せたという。すべてが終わったという「誘惑“peirasmos”」から すべては終わっていないという「試練“peirasmos”」へと変わっていく瞬間だったのでしょうか。

長い人生の中で否が応でも出会ってしまう苦難というものを、“悪魔”からと受け止めれば、すべては終わったと自分を押しつぶす圧迫 つまり 「誘惑“peirasmos”」となってしまう。“神”からのものだと思えるのなら、希望は消えず、飛躍のための「試練“peirasmos”」となる。そう思えるのなら生きる力も湧いてくる。何があっても神から離れずという “信仰”を持って生きるということの本来の姿のようですね。

ミラノ・コルティナ2026オリンピックの忘れられない物語となっていきますね きっと(^_^)v

三田教会 神田裕

2026年1月 1日 (木)

ニュートラル

40数年前 自動車運転免許を石川県にて合宿で取った 初めて出会う人たちと旅館で2週間ほど一緒に過ごしながら毎日教習所へと通う 勉強しながら教習所内で実際に車に乗る カーブの時ハンドルを切った後 戻すときに手を軽く浮かせて自動で戻した時 隣りに乗っている教官にひどく怒られた 仮免の時は雪の中の北陸自動車道だった いきなりの雪道はさすがに怖かった オートマチック(AT)ではなくマニュアル(MT)で 坂道発進はクラッチとアクセルとブレーキの兼ね合いがなかなか難しくすぐにエンストしてしまう それでも2週間で終え東京で免許取得して大阪に戻ってきた 

初めての運転は玉造教会から助手席に同級生の中川神学生に乗ってもらい出発 天満橋の交差点で黄色で侵入したのだが 大きな交差点だったので途中で赤になり おまけにパトカーもいてすぐにサイレンを鳴らして追いかけてきた 運転初日に発行された青切符は今でも記念に残している

車はマニュアル(MT)が好きだ ただ渋滞の多い都市部ではなかなか疲れる 運転していて途中で止まるとシフトレバーをニュートラル(N)に入れてサイドブレーキをかける 運転の合間の休憩時間だ 信号が変わるとクラッチを踏みロー(L)にギアをいれてゆっくりとアクセルを踏みスタートする 走りだすとセカンド(2)、サード(3)、トップ(4)へとシフトを変更し 高速道路に入るとオーバートップ(5)にギアを移す 快適だ!

ニュートラル(N)は休憩時間だ ヒートアップしているエンジンも落ち着く クラッチを踏みギアをロー(L)に入れゆっくりとまた動き出す 急ぐときはセカンド(2)発進だ タイヤがキューっと悲鳴を上げる バック(R)にギアを入れると前には進まず後ろに行く 便利だが前進以上に注意が必要だ

人生は喜怒哀楽 「喜」びをもってゆっくりとローで前へ進む オーバートップに入れるところまでいけば「楽」しいが スピードも出ているので気を付けないといけない 「怒」っているときはセカンド発進か きしむ音を立ててタイヤもすり減る バックに入れる時は後ろを見て過去の「哀」しみをも振り返ってしまう 人生は車の運転のよう 大事なのはニュートラル どこのギアにも入っていない心の状態は必要不可欠 ニュートラルは祈りの時間ともいえる ところがついついバック(R)にギアを入れたままで祈ってしまう 時にはセカンドにギアを入れたままで祈っている そんなことをしていたらエンジンはボロボロになってしまう どこにもギアを入れないでニュートラルな時間を持つ そうしたらエンジンも整って また前へと進んでくれる 

年の初めにあたり この一年 ニュートラルを口癖にしたい ニュートラル ニュートラル♪

三田教会 神田裕

2025年11月 1日 (土)

エデンの園のりんご

エデンの園に生えていた“善悪の知識の木の実”を食べて楽園から追い出されてしまったアダム(土)とエバ(命)の物語。その禁断の果実はすっかりリンゴだと思っていたのだが、聖書には果実と書かれているだけだ。物語の時代的にも地域的にもそこにはリンゴはない。どの果実であったのかはどうでもいいのだが、あるとすればイチジクかザクロかブドウなのか。

なぜリンゴと思っていたのかと気になって調べてみた。なんと中世の頃のヨーロッパでのラテン語の言葉遊びが原因だった。リンゴは“malum” 悪も “malum”なのだ。当時の画家たちがその言葉遊びをイメージして物語の絵を描いたのでこの木の実はリンゴとされてきた。なぜリンゴと悪が同じ言葉なのか腑には落ちないのだが、赤い実が誘惑的なのかもしれない。万有引力を気づかせてくれたのはリンゴだった。そういう意味ではリンゴは何かと秘密を知るに魅力的な果実かもしれない。

リンゴを食べるには口を大きく開けて丸かじりが何となく理想的だが意外と難しい。お皿の上にリンゴを置いて等分してから皮を剥いて食べる。丸のままのリンゴの上からナイフの刃を当てて一気に皮をらせん状に剥いてから等分に切って食べる。

そんなリンゴの皮の剥き方が危ないと注意された外国人女性がいた。リンゴを左手に持ち、右手でナイフの刃を外側に向けて握り、右手の人差し指でガイドしながららせん状に剥くのだ。そばにいる人にとっては刃がこちらに向いているので危ないと思ったのだろう。そんなリンゴの剥き方があること自体知らなかった。私は、幼い頃から教わったままに、ナイフの刃を内側に向けて親指でガイドし皮の厚みを見ながらリンゴを剥く。彼女は、刃を自分に向けている方が危ないと言っていた。言われてみればそうも言える。

りんごの剥き方、食べ方だけでも文化によって色々とある。ナイフとフォークで一口ずつ食べるところもある。お上品な食べ方だなと思う。ピーラーで剥くところもある。スピード重視だと聞くとなるほどなあと思う。それは優劣や良し悪しではない。そこにあるのは違いがあるだけで、リンゴ一つとってみても想像を超えて色々あって豊かだ。

リンゴは色々と気づきを与えてくれる。エデンの東から、その引力によって再び“命の木”に近づけてくれる “多文化な知恵の木の実”なのだ。(^_^)v

三田教会 神田裕

2025年10月 1日 (水)

齢(よわい)を重ねる

「しんぷさま 重い荷物を持たれては大変 そのお荷物をお持ちいたしましょう」「えっ?とんでもないです!」「役立たずでごめんなさい」。たかとり教会に赴任したのは1991年、私が33歳の時だ。教会のご婦人たちと一日旅行に行ったときに F さんにそう言われたのだ。1905年生まれの女性で最長老だった。

震災直後にも言われた。「なにかお手伝いが出来ればいいのですが せめてこの材木を運びましょう」「いえいえ 腰を痛めてはいけないので結構です」「役立たずでごめんなさい ボランティアさんのために祈っています」。

震災前から月に一度は地区集会で聖書の分かち合いを続けてきた。西須磨集会は F さんを筆頭に高齢者も多い。仲もいい。週に一度は別の集まりもしていた。花札遊びだ。一度その賭場?へ行った。細かく書かれた手書きのルール表。いざ始まると、F さんの顔は鬼に変わった。厳しい目つきと真剣な表情が忘れられない。一方、北須磨集会の若手のお母さんたちはリーフグリーンを立ち上げた。

毎年行っていた敬老の祝いは震災時では教会として行うことは断念した。しかし F さんは言った。「私たちが企画するので敬老の祝いをしたい」。十数人の敬老対象者たちが出し物を考えた。おどけた厚化粧をして踊ってくれた。赤い半パンで歌ってくれた。三味線に長唄を披露してくれた。日本舞踊で踊ってくれた。若い人たちはみんなビックリだった。ボランティアたちへの感謝の気持ちは伝わった。カオスな教会は求心力を持った。F さんの祈りはこのことだった。

97歳の時に息子に先立たれた。その時の思いをしたためた手書きの手紙はいまも残している。

2005年5月に F さんの100歳の誕生祝いをミサの中でやった。その日を区切りに教会再建が始まった。

それから数年たって F さんは救急車で運ばれた。病院に見舞いに行った。「どうしたの?」「最近背中が丸くなってきたのが気になって 鴨居に手をかけ背中を伸ばしていたらそのまま動けなくなったのです どうも骨折したみたいで」「そうだったんですか 私にできることがあればおっしゃってね」「ふふ お肉が食べたい」。

108歳の誕生日の時に施設を訪ねた。瞼が下がって目が開かないのでテープで釣り上げていた。数百円の木製のかわいい指輪があったのでプレゼントと称して差し上げたら、左手の薬指を差し出された。初めての体験でドキドキした。

もうすぐ111歳になる僅か手前で旅立たれた。2月14日のバレンタインデーの日だった。チョコをもって旦那さんや息子さんのいる天国へ旅立たれたのだった。

F さんは戦時中、神戸で 3 度も焼夷弾で焼け出された。ここでは書き切れないが波乱万丈の人生だった。

齢(よわい)を重ねれば辛いも重ねることになる。ただそんな弱いも重ねれば丈夫になる。

一度しかない人生だ。最後の最後まで、豊かな人生を送りたいものだ。

三田教会 神田裕

2025年9月 1日 (月)

Discover Myself !

高校を卒業して目指したのは外国語を学べる大学だった。言語に興味があった。なんだか息苦しさを感じていて外国語を学んで違う文化に触れあえればもっと別の世界観で生きられるのではと思ったからだ。外国語の授業は技術的なものが多くてあまり面白くない。文化人類学や言語学の授業は面白かった。そんな中で気が付いたことがあった。他の文化を知りたいと思っていたが実は自分の生活文化のことさえもあまり知らないということだった。

思い起こせば大学時代はよくアルバイトをした。家庭教師や塾などはメインだったがそれぞれの子どもや家庭と触れ合えた。朝早くからのパン屋はあまり続かなかったが、おもちゃ屋は 2 年ほど続いた。おもちゃの世界に浸りながらレジの締め方を学んだ。スポーツ店でのテニスのグッズ売りとガット張りは1年。テニスをしたこともないのにノウハウを語っていた。レントゲン検診車に乗り一週間かけ名古屋の各企業を回り白衣を着て胃の検診のサポートをする。色んな分野で働く人のことを知る。トラックの助手席に乗り質屋を回り商品の上げ下ろしをする。最初の店に着いた時どうしていいか分からず助手席に座ったままでいるとめちゃくちゃ怒られた。指示待ちだけじゃだめだと学んだ。大阪南港のイベント会場で終了後の仮設設備の解体作業はきつかった。新興住宅地の一斉引っ越しの日に酒屋の帆前掛けをして荷物の搬入の手伝いを無償で行い如何ですかと酒の注文を取る。じゃビールを2ケース頼むよの言葉にガッツポーズ。京都のいくつかの大学周辺で学生向けのチラシを配る。配るというより学生の自転車の前カゴに有無を言わさず放り込んだ。等々。それでいつ勉強してたんやと今更ながらに思うのだが多くの学びはあった。

あっという間に大学時代は終わり、その後神学生志願者として東京の神学校へ行くことに。そこでは各地からくる神学生との共同生活が始まる。皆は同じ信仰同じ目標を持っているのだが各々の思いは違い生き方までもが違う。同じと思ってしまうからたまにはぶつかり合いもする。誰一人決して同じではなく違うのだということを学んだ。神父というひな形などないと思った。

“自分らしいこと人間らしいことを大切に” Y 司教の言葉を信じて神父になった。教会をベースにその地域を知っていく。同じ教会でも地域が違えば文化も違う。3 つ目の赴任先ではボートピープルのベトナム人家族たちとの出会いがあった。お家へ訪ねて行けばもうそこはベトナムの世界だ。ベトナムへ行かなくてもベトナム文化を体験することができた。なんと贅沢なことかと思った。

色んな人に出会い興味をもって他の文化を知り理解しようとすればするほど自分は何なのと思う。それは自分を知ることでもあるのかと思う。“Discover Myself” 自己発見してゆく旅でもあるのかと。

三田教会 神田裕

2025年8月 1日 (金)

日本基督教団 摂津三田教会 創立150年 おめでとうございます!

ご縁を感じながら・・・

150年という長きに渡ってこの三田の地で福音宣教に邁進し続けてこられたことに敬意を表します。教会のあゆみを見させていただきました。そのスタートは旧三田藩の陣屋跡を教会とされていたようで旧三田藩との繋がりからの由緒ある教会ですね。この教会のメンバーの皆さんが三田の「ひとづくりまちづくり」にずっと昔から関わってこられたことに同じキリスト者として心より感謝いたします。ご挨拶と共に、その歩みに合わせて自らの歩みと合わせながら、今この時を出会いの時として刻みたいと思います。

私は丁度還暦の時、2018年にすぐお隣のカトリック三田教会に赴任してきました。この教会が屋敷町に建てられたのは1952年のことです。摂津三田教会が始まって77年目の時です。1990年までは歴代フランス人の宣教師が主任司祭でしたがその年以降は日本人が担当しています。

あるフランス人宣教師は教会敷地内でアヒルを飼っていました。今は三田教会の長老 H 氏が小学生の頃そのアヒルの世話をさせられていたようで、旧三田藩陣屋跡の横の大池までアヒルを連れて散歩に行きそこでしばらく池で遊ばせてまた教会へ連れて帰ってきていたそうです。今から思うと、その頃あたりから摂津三田教会にお近づきになろうとしていたのかなと勝手に私なりの物語を作っています。ただ摂津三田教会が陣屋跡におられたのは最初の2年だけで、1877年には三田本町上に教会を建てられました。プロテスタントの教会として日本で5番目に建てられた歴史的な教会も残念なことに三田都市計画に伴う道路工事で保存が叶わなかったようですね。三田教会もその同じ道路工事で敷地の東側がだいぶ削り取られました。

摂津三田教会は1967年には2代目の教会が屋敷町に移転されご近所となって58年となりました。1988年には3代目の教会が建てられたようですが、その同じ年に私はカトリック司祭として歩みだした年でした。1995年に再び都市計画の影響で4代目の今の摂津三田教会が建てられました。阪神淡路大震災の時でした。その年、私は神戸市長田区のカトリックたかとり教会にて被災し救援基地として歩みだし今もたかとりコミュニティセンターとして多文化なまちづくりを目指して活動が続けられています。2024年に久保田牧師ご夫妻が摂津三田教会に来られました。初めての出会いでしたが、実は1995年の阪神淡路大震災の頃に出会いがあったのでした。それを知り一気に親しくさせて頂いています。

摂津三田教会創立150年。4代目の今の教会になられて30年。阪神淡路大震災から30年。いろんな出来事があった昭和の時代を生きてきた私たちには100年となりました。過去に摂津三田教会の人たちも神戸に移られてもいて、神戸とのつながりも感じながら、そしてご近所としてのご縁を感じながら、この節目の時を機に隣同士の教会として、この三田の地において「ひとづくりまちづくり」に一緒に関わって行きたいものです。

三田教会 神田裕

2025年7月 1日 (火)

ゴンタな子

「小学校の時 ゴンタな子がおってなぁ」 と、ある時、母さんが話し始めた。自らが体験したように話していたのできっとそうなのだろう。そのゴンタな男の子は教室の一番後ろの席に座っていた。一番後ろは見晴らしがいい。悪戯するにはもってこいの場所だ。前に向かって消しゴムを投げても誰が投げたか分からない。

いつものように授業が始まった。教室内には先生の声だけが静かに聞こえてくる、はずだったが、突然に後ろの席から女の子の叫び声が聞こえた。みんなはビックリして後ろを振り向いた。叫び声は泣き声に変わった。見ると叫んだのはそのゴンタな男の子の前に座っていた女の子だった。するとそのゴンタな子も大きな声で叫んだ。「こいつが悪いんや!」。

教室の後ろには赤く塗られたバケツがいくつか置いてあり、非常時の消火のために水が張られている。ゴンタな男の子はそのバケツを持ち上げて、よりによって目の前の女の子の頭の上から水を浴びせたのだった。なんということをしたのか。悪戯するにも程がある。先生もびっくりして教室中がパニックになった。なんでそんなことをするのと叱ってもゴンタな男の子は「こいつが悪いからや」としか言わない。被害にあった女の子は泣き続けて話すこともできない。教室のみんなはあっけにとられ、二人は教室の外に連れ出された。

先生は女の子に、「何があったの?何か悪いことしたの?」と聞いた。しばらく黙っていたその女の子は恥ずかしそうに、「授業中におしっこが我慢できなくなってお漏らしをした」と泣きながらやっと言えた。ゴンタな子のとっさの判断に感心した。

私自身はこんなことがあった。小学校の時の5時間目の授業中、気分がとても悪くなり、突然に机の上一杯に教科書やノートが見えなくなるぐらいゲロを吐いたことがあった。先生はじめ周りの子たちは「うわぁ!」と叫んで遠ざかった。めちゃめちゃ恥ずかしかった。どうしたらいいのか動けなくなった。すると後ろにいた女の子がすぐに、「大丈夫?」と言ってバケツに水を入れ雑巾を持ってきて机の上を綺麗にしてくれた。申し訳ないと思うと同時に、すごく嬉しかった。見た目も悪いしニオイもきつい。先生も近寄ってこない。そのまま授業は続けられた。

その教科書はふやけて2倍の厚みになってしまった。情けなさも2倍に膨れ上がった。それでも、恥ずかしい思いをしたときに、孤独にならないようにすぐに行動してくれた友だちたちに感謝!!

三田教会 神田裕

2025年6月 1日 (日)

ミックスルーツ

コンクラーベ(教皇選挙)が開催された。教皇に選ばれるのは歴史的にはイタリアの人が多いのだが、最近ではポーランド、ドイツ、アルゼンチンと続いた。今度はアジアやアフリカから選出されるのかもしれないと思った。白い煙が上がり、選出された新教皇が姿を現した。緊張した表情の中にも穏やかな笑顔があった。ホッとした、と同時に、シカゴ出身と聞きビックリした。今や“世界のビックリ箱”になっているアメリカから教皇が選ばれたのだった。

アメリカには移民排斥の動きがある。そもそも移民で成り立ってきた国のはずなのに、多民族なルーツの人々が集まっている国なのに、何故にと思う。 “クレオール Creole”という言葉がある。簡単に言うと混じり合いなのだが、異なるものが一つになって新しいものが誕生するというようなイメージの言葉だ。植民地や奴隷といった痛ましい歴史の中にあっても、それを克服しようとしてきたエネルギーが詰まっている。新教皇に選ばれたプレヴォスト枢機卿のルーツもとても豊かだ。母方の祖母はルイジアナ・クレオール(白人と黒人の文化が混じり合っている)で祖父がカリブ海イスパニョーラ島(ハイチ/ドミニカ)からの移民だ。父親はイタリアのシシリー島からの移民で、実に“ミックスルーツ”なのだ。それにしても“ファミリーヒストリー”番組のようによく調べる人もいるもので、家族もそのことを知らなかったようだが、それを知った教皇は自らを“移民の子孫”と あらためて名乗ったようだ。

そもそもどこの出身かなんて言うこと自体“井の中の蛙”のように思える。ルーツをたどれば人類は皆アフリカ出身なのだから。でも今は、身内志向がますます強くなり、他を排斥することで自らを守ろうとするような感じだ。ワールドワイドでものごとを考え、多文化が身をもって理解できるであろう“ミックスルーツ”な人たちが、地球規模での人類の平和へと導いてくれることを願いたい。教会自体も“ミックスルーツ”で成り立ってきた。歴史的にはユダヤから巣立ち “ミックスルーツ”な旅へとキリスト教は歩みだした。三位一体の神に共通の希望を持ちながら、旅を続ける多文化共同体だ。“教会”という漢字表記は好きではない。教えるって誰が誰に何を教えるのだろう。それよりも“協会”の方がいい。十字架(受難と復活)の希望のもとに、それぞれのルーツを持つ人や文化が互いを大切にしながら平和のために働く“力”の共同体だ。“協会”の方がキリスト教的ではないか。教えてあげようという上から目線な“教会”の歴史の中で、文化を侵略してきた負の遺産もたくさんあるが、本来のあり方はそうではないはずだ。

私たちが目指すのは、それぞれの歴史の中でつくられてきた文化を尊重し交流することで、ともに平和を模索し、そして新たな文化を創造していく、地球規模での“クレオール”だ。“ミックスルーツ” それは平和な未来を生み出し創造する原動力ではないのか。

三田教会 神田裕

2025年5月 1日 (木)

さびずに生きる

最近公開された映画の広告が目に留まった。104歳一人暮らしの女性のドキュメンタリーだ。周りの人には笑顔を忘れず勇気と希望を与え、家周りや道端の草取りも毎日する。「さびない鍬でありたい」が彼女の信条だ。「何かしていないと人間もさびる」。なるほどそうだなと思う。人生を味わいつくす。「さびずに生きる」という言葉に新鮮味を覚えた。ただそうは言っても、からだは日に日にさびてはくる。

毎年、枝の主日には、奄美大島からソテツを送ってもらっている。しかし残念ながら害虫被害による不作で手に入らなかった。ソテツは漢字では蘇鉄と書く。大島の土は鉄分が多く含まれていて栄養分がほとんどない。いわゆる赤土で、岩石が風化して土になる時に鉄分が空気中の酸素に触れてさびて赤くなる。だがソテツはそんな土壌でもしっかりと育つ。もっと言えば、鉄で蘇る植物とでもいうことができるかな。長い進化の歴史の中でソテツは自らの生きる術を得てきた。長い歴史の中で人も、そのさびた土を生かし、あの有名な泥染め“大島紬”を生み出した。

三田市は元々有馬郡三田町だった。その有馬の名前はこの地にある有馬温泉の有間からきている。日本三古湯の一つとして有名な有馬温泉は、実に 7種類の泉質を持っている豊かな温泉だ。大きく金泉銀泉と2種類に分けられている。その中の金泉と言われている温泉は、湧きだす瞬間は無色透明だが湯に含まれる鉄分がさびて色を出す。いわばさびた湯につかるわけだが、そのさびが実に心と体を癒してくれる。金泉と名付けたのもよかった。土にも水にも、さびることを生かした知恵があった。自分のからだのさびもうまくいかせればいいな。からだはさびても、そのさびが別のものを生み出すのかも。からだはさびても、そのさびが人をいやすものになるのかも。“からだはさびてもいのちはさびず”かな。

さびないいのちにいまを生きる
復活のいのちにいまを生きる
永遠のいのちにいまを生きる

三田教会 神田裕

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