三田教会

2024年9月 1日 (日)

でたとこ勝負

ピーッ、ピーッ、ピーッ!突然に大きな音が部屋中に鳴り響いた!何が起こったか理解できぬまま、慌てて音が鳴っている警報装置の電源を抜き、壁に付いているその装置を引っ剥がしてしまった。それでも警報音が別のところから鳴り響いている。少し落ち着いて警報音停止のスイッチを押す。やっと止まった。表示の「ガス漏れ」はついたまま。壁に付いていた装置の電源を入れないと消えないようだ。だがまた鳴り出すかもしれないのでそのままにした。どうも誤作動だ。しばらくすると部屋の入り口をノックする音が聞こえた。覗き窓から見ると扉の向こうに武装?した人が立っている。今日は何という日だ。「どなた?」と声を出すと、「セキュリティです」との返事。そっか、警報に連動してきてくれたんだ。部屋に案内し装置を元通りにして一件落着。それにしても突然は慌てふためく。ここ半月前のことだった。

震災後すぐ NHK ラジオの生放送に出た。「神田さんは揺れている時どうしていましたか?」、「布団を被って一言‘あかん!’と叫んでいました」、「神父さんはそういうときはお祈りしないのですか?」、しばらく無言、「‘あかん’の叫びは(神にゆだねる)祈りそのものです!」と苦し紛れに応えた。地震以上にシビアな突然のインタビューだった。

先月8日夕方、日向灘を震源とする地震があった。そして、南海トラフの巨大地震「注意」が発令された。いよいよやってくるか!一気に緊張が高まった。皆は災害時に備えて食料や水を確保しに走った。イベントも中止され電車も止まった。いざという時のために準備する体制がとられた。ただいくら準備していてもいつ何が起こるかは誰にも分からない。また何も起こっていない時から心配して恐怖に慄いていても何も始まらない。

自然災害だけではない。今日明日何が起こるのかはほんとに分からない。いつも突然だ。そして結局いつも‘でたとこ勝負’だ。何があってもきっと乗り越えられる。決して一人ではないので乗り越えられる。そう信じて今をしっかりと生きることが一番の準備だ。

Ecce ancilla Domini. FIAT mihi secundum verbum tuum.

三田教会 神田裕

2024年8月 1日 (木)

“たかとり”震災語り ② いのちの重み

今年も暑い夏が始まった。そしてお盆には、三田教会でも合同慰霊祭が行われる。三田に来てからもたくさんの方たちの葬儀に立ち会ってきた。家族の方たちを通して亡くなった方たちの生きた証の声を聴いてきた。一人ひとりの尊い命が自らの命とも重なっていく。

震災の時、たかとり教会の人たちは多くの家族が住むところを失い、避難生活を余儀なくされた。ただあの地震で亡くなった方はおられなかった。たかとり教会が救援基地として歩み出す背景には、教会の人がみんな生きていたことが大きな励みとなっていた。

震災後しばらくして、普段からお世話になっていた地域の電気屋さんに、救援基地の電気工事をしてもらった時のことだった。「神父さん、ぼく毎晩寂しいねん。一緒に寝てくれへんか」と言ってきたので、「何を冗談言うてるの。がんばりや」と言って帰した。1週間もしないうちにあろうことか彼はお店の中で感電自殺を図った。地震の時、側で寝ている奥さんを亡くされてずっと孤独から抜け出せなかった。‘冗談’と言って話しを聞かなかった自分自身を悔やんだ。

震災10年少したって、長田で靴の工場を経営していたある人が、「私、実は韓国で洗礼を受けているので教会に来てもいいですか」と言われた。「もちろんです」と応えた。プレハブが立ち並ぶ救援基地の解体を始めていたころ、キリスト像の横の2階建てのプレハブも壁を取り外し始め、ほぼ骨組みだけになって、全部解体する日の朝のことだった。家族の方から連絡があった。「ほんとうに申し訳ないです。父親がプレハブの2階で首を吊って亡くなりました」と言われ驚いた。警察と一緒に引き取ったと。私の2階の部屋からキリスト像を挟んでちょうど向かい側。そばで寝ていたのに全く気が付かなかった。彼は借金を重ね重ねて社員に給与を払い続けとうとう限界が来たのだと家族は言った。死ぬ場所を探すために教会に来ていたのか。キリスト像の背中を見ながら命を絶った。

震災は多くの人の命を奪った。支えることが出来たはずの命も周りの無関心の中でその命を絶った。命の重みと向き合いながらの日々が続いている。

三田教会 神田裕
Dsc02457 Dsc02456 Dsc02453 Phk-2005__1202 Phk-2005__1232 Phk-2005__1258  Phk-19951999__0449 Phk-19951999__0448

2024年7月 1日 (月)

“たかとり”震災語り ① 奇跡のキリスト像

「キリスト像が火を止めましたね。奇跡ですね!」
「いいえ、火を止めたのは人間です」
「キリスト像は燃えなかったですね。奇跡ですね!」
「いいえ、石膏なのでもちろん燃えないです」
「キリスト像は倒れなかったですね。奇跡ですね!」
「いいえ、土台をしっかりと作っていたからです」

今年も半年が過ぎた。そしてあと半年で、阪神淡路大震災から30年を迎える。

あの日、“たかとり”に殺到したマスメディアのお目当ては、焼け跡に残った「奇跡のキリスト像」だった。テレビ、新聞、雑誌などなど。いくら否定しても「奇跡のキリスト像」は発信され続けた。ふと思った。世間の目から見た教会はそうなのかもしれないと。自ら情けなくも思った。悔しかったので、キリスト像にヘルメットをかぶせた。するとカトリック系の雑誌がヘルメットのキリスト像を表紙にした。すかさず匿名の抗議の電話がかかってきた。「なんということをするのか!」と。被災地の様子を聞くこともなくただお叱りの電話。大真面目で反論した。「もし今キリストさんがここにいてはったら、こんなところでボォーッと突っ立ってへんでしょ。ヘルメットかぶってみんなと一緒に働いてはるんとちゃいますか!」と。教会は人の痛みはどうでもいいのか?やりきれない気持ちを持ちながら、震災の日々が始まった。

焼け跡のど真ん中で夜通したき火を焚く“たかとり”に、どこからともなく多くのボランティアの人たちが集まった。教会は被災地の救援拠点となった。避難場にいる人たちの生活支援、公園での炊き出し。ボランティアの人たちへの食事支援をするボランティアも集まり、自分たちの寝泊まりする建物もつくり、まちの保健室もつくり、多言語で情報発信する放送局もつくり、灰色の町にペンキで絵を描いてきた。
そして30年たとうとしている“たかとり”は、日常多くの人の集まる多文化発信拠点として今も進化し続け、ひとづくりまちづくりに貢献している。

キリスト像は今も同じ場所に立っている。みんなここに集まっておいでと言わんばかりに、両手を広げて立っている。キリスト像は奇跡を起こし続けている。

三田教会 神田裕

Dimg0003_original Dimg0024_original 183a7d5935114f85ba73e1370fccb556

2024年6月 1日 (土)

謙遜(けんそん)と謙虚(けんきょ)

謙遜と謙虚の違いがよく分からなくて調べてみた。英語ではhumilityでほぼ同じだ。

「あなた素敵ね。可愛いね。格好いいね」って言われた時、あなたならどう応える?「いえいえとんでもないです」と応えるのは謙遜な人。「ありがとう」とまず言って相手の気持ちを受け入れるのは謙虚な人。謙遜とは自分の能力や価値などを下げて自身を評価すること。謙虚とは相手の気持ちをそのまま受け入れることで、自分の能力や価値などは下げないこと。

謙虚とは自分というものをよく知ったうえで、素直に他者から学ぼうとする気持ちがあることで、好奇心と他者への関心と尊敬があり、そこから向上心が生まれてくるとあった。私たちの社会の中で良好なコミュニケーションをとり自分を磨くためには謙虚がよさそうですね。

「謙遜は世界と教会における平和の源」という日本語訳のタイトルで先月、教皇メッセージが発せられていた。その中で、ラテン語のhumilis(謙遜)という言葉はhumus(土)から来ていると知った。英語のhumilityもそこから来るのだろう。灰の水曜日には「あなたは塵(ちり)であり塵(ちり)にかえっていくのです」の聖書の言葉で頭に灰を受ける。謙遜のシンボルだ。

山上の説教で「心の貧しい人は幸い」とあるのも、マリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」「身分の低いこの主のはしためにも、目をとめてくださった」という祈りも、イエスがエルサレムではなくナザレで生まれたことも、十字架上でなくなったことも、humilisを謙遜と訳する所以だろう。謙遜はキリスト教のすべてだと言える。

この社会の中で人との良好なコミュニケーションには謙虚が必要で、神との良好なコミュニケーションには謙遜が必要ということになる。なぜ謙遜に神とのコミュニケーションを取ろうとするのか、それは私たち人類すべての平和と幸福を願うからに他ならない。謙虚に宗教を語りながらも、謙遜に神とのコミュニケーションが取れないところには、必ずと言っていいほど、争いが生まれるからだ。

三田教会 神田裕

2024年5月 1日 (水)

絶滅危惧種

生きとし生きるものすべては多様性に満ちている。微生物、植物、動物で大きく分けて3種類だが、細かく分けると、分かっているだけで175万種。まだ発見されていない生き物を含めるとなんと3000万種以上にもなるという。なんと多様な生物が存在しているのだろう。動物に分類されている中の70%は昆虫たちだ。寝室に入ってくる虫たちはちょっと苦手だけれど、植物たちと昆虫たちは持ちつ持たれつの絶妙な関係で共存している。この地球にすむすべての生き物は絶妙なバランスで共存している。

6600万年前に巨大隕石の衝突で恐竜たちも含め生き物がほぼ絶滅したとされているが、それ以降も様々な理由で絶滅の危機を迎えてきた。そして今、6度目の生物絶滅の危機に突入している言われている。原因は、ほぼ私たち人間の生産活動にあると言われる。土地の開発や汚染、乱獲や密猟、地球温暖化や気候変動などなど。現在42000種ほどの生き物が絶滅の危機にあるという。

例えば狼。害獣なので絶滅させた方がいいという極端な取り組みをしている地域もある。実際に狼を根絶したところでは大型の草食動物が増え森林が無くなってしまったという極端な例も聞く。聖書の中には、羊を守る良い羊飼いのたとえなどで狼と羊が登場するので、何かと狼は悪者のイメージがあるが、何も羊を狙うのは狼だけではない。その狼とは、多くの弱きものから搾取する一部の力を持った者たちのことだろう。

自然からの搾取だけでなく、戦争によって共食いをしている人間は、兵器によって自らも絶滅の危機に追い込んでいるようにも思える。実は、人間こそ一番の絶滅危惧種なのかも知れない。

さて、ところで、神父も絶滅危惧種に含まれていると聞いたが、本当か?

三田教会 神田裕

2024年4月 1日 (月)

終わり方さがしは生き方さがし

桜は《散る》 梅は《こぼれる》 菊は《舞う》 牡丹は《崩れる》 椿は《落ちる》 朝顔は《しぼむ》 紫陽花は《しがみつく》などなど、花の終わり方はそのあり方を見てさまざまな言葉に表現される。

「花は散り際が美しい」と利休はいう。完全無欠を好まず、完璧を崩すことで、わびの境地へと導く。無駄なものを削りながら、最後に残るのは素の自分。慎ましく質素なものの中に奥深さや豊かさなどを見る。この時代にあって価値を転換、破壊して新たな価値を生み出す。それが茶の湯の世界ということか。利休の最期は、切腹を命じられ、権力者に対峙して散っていく。そして茶の湯は永ごうの命を得ることとなたっと。

完璧なまでに積み重ねられた掟の中にあって、最後に残るはこの掟。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして隣人を自分のように愛しなさい」。自己の完全無欠ではなく、完璧さでもなく、無駄なものを削りながら、貧しさの中に真理を見出し、与えられたいのちに気づく。「新しいぶどう酒は新しい革袋に」。この時代にあって価値を転換、破壊して新たな価値を生み出す。権力者によって十字架につけられ、死ぬことによって復活のいのちへと導かれる。死からいのちへと、パンとぶどう酒の中に永遠のいのちを得る。

茶の湯は仏の教えに悟りを得るが、戦国の世にあって、キリストの教えはその中に見え隠れするのではと勝手に妄想する。道具から空間、そして人そのものへと、そのあり方を追求する。日本文化の中にキリスト教は馴染みにくいとされるが、果たしてそうなのか。

終わり方さがしは生き方さがし。あなたの終わり方は何とする。

2024年、主のご復活おめでとうございます。

三田教会 神田裕

2024年3月 1日 (金)

タボルの山でご変容

あ)べあべまりあうみのほし
い)えずすさまはやさしいな
う)みやまこえてせんきょうし ・・・
た)ぼるのやまでごへんよう etc.

幼い頃に遊んだカトリックいろはかるた。全部は忘れたが、た)は毎年四旬節 2 に読まれる福音のテーマだ。変容という体験をする弟子たち。変容って何だろう。

水から氷にそして蒸気に、ある温度を境に一瞬にして変わること。その瞬間を体験すること。つまり今。それに対して変化という言葉もある。それは時間をかけて変わっていくもの。つまり過去と未来。

いのちは時間の変化の中にある。毎日あれやこれやと考えて疲れてしまう現実。出来事はきっと単純なのに、自分の頭の中の思いは乱れ飛ぶ。年を重ねればますます複雑怪奇になってくる。まさに過去が今の自分を形作っていく。過去は止めどもなく広がって、今どころか未来までも食い尽くしてしまう。そうなると夢も希望もなくなってしまう。そんな過去に縛られて生きることから脱出することができないものか。

今という瞬間をつなぎ合わせて生きることができればどんなに幸せなことか。偏見を取り払い出来事に素直に耳を傾ける。すると気づきが生まれて発見もある。子どものようでなければとは、変容を生きるということになる。み旨のままに生きるとは、変容を生きるということになる。空っぽな今を生きられればどんなに幸せなことか。

復活体験をしていく弟子たちは、変化の中に生きることから、変容の中に生きることとなる。変化の中に現実を見るが、変容の中に永遠を見る。

2024 四旬節に思う
三田教会 神田裕

cf:変容の出来事は今ではタボル山ではなくヘルモン山と言われている

2024年2月 1日 (木)

仕合わせ

なぜめぐり逢うのかを
私たちはなにも知らない♪
いつめぐり逢うのかを
私たちはいつも知らない♪

中島みゆきの「糸」の歌い出しだ。人との出逢いを歌ったものだが、出来事との出遭いにも当てはまるのではないかと。

縦の糸はあなた 横の糸は私♪
織りなす布はいつか誰かを
温めうるかもしれない♪

29 年前に被災した私たちの縦糸に、全国から駆け付けてくれた人たちの横糸。糸を一緒に織りなして出来上がった布は いつか誰かを温めうるかもしれないと。

なぜ生きてゆくのかを
迷った日の跡のささくれ♪
夢追いかけ走って
ころんだ日の跡のささくれ♪

能登半島での大きな地震で今年はスタートした。一年で一番平穏に過ごしたい元旦に起こった大震災だ。被災地、被災者の方たちのことを思うと心が痛む。神戸が過ごしてきた日々を今から始められるのかと思うともう言葉が出てこない。

縦の糸はあなた 横の糸は私♪
逢うべき糸に出逢えることを
人は仕合わせと呼びます♪

不運とも言うべき災害を通して出会うことを仕合わせと言おう。悲しかったけれど苦しかったけれど、出逢いのすべてを織りなして、未来を温めうる布になって行こう。
そして、幸せになって行こう。

三田教会 神田裕

2024年1月 1日 (月)

アンパンマン ♪

去年一年を一言で「酷」と言った人がいた。戦争、難民、気候変動などなど。私たちの心の底に「闇」という言葉が何度もジャブを打ってきた。行きつくところは「絶望」だ。それではいけない。「希望」をなくしてしまったら「祈る」ことさえもできなくなってしまう。みんなの「夢」まもるため年の初めにアンパンマンを歌ってみる♪ 自身を食べさせるアンパンマンはイエスを思い起こさせそうだ。ネガティブからポジティブへ。自ずとこの一年の過ごし方が見えてくるかもしれない。 

三田教会 神田裕

 
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられない なんて
そんなのは いやだ! 

今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
 
そうだうれしいんだ
生きるよろこび
たとえ胸の傷がいたんでも
ああアンパンマン
やさしい君は
いけ!みんなの夢 まもるため
 
なにが君のしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないままおわる
そんなのはいやだ! 

忘れないで夢を
こぼさないで涙
だから君はとぶんだ
どこまでも 

そうだ おそれないで
みんなのために
愛と勇気だけがともだちさ
ああアンパンマン
やさしい君は
いけ!みんなの夢 まもるため 

時ははやくすぎる
光る星は消える
だから君はいくんだ
ほほえんで

そうだうれしいんだ
生きるよろこび
たとえどんな敵があいてでも
ああ アンパンマン
やさしい君は
いけ!みんなの夢 まもるため 

やなせたかし

2023年12月 1日 (金)

話せば、わかる? 離せば、わかる!

先日鹿児島で行われた高校生の文化部全国大会で弁論部門のスピーチでの出来事。弁論の途中で 10 秒ほど無言になり会場が静寂に包まれたとのニュースを見た。発表の K 高校S さんはディベートに魅力を感じ弁論部へ入部するも、高校生活ではコロナの影響で会話しないことが新しい生活様式となってしまい残念な経験をすることとなった。

そしてスピーチでの沈黙。その 10 秒は緊張のあまり言葉が出なくなったのではなく 10 秒のメッセージがあった。沈黙自体は何も伝わらない 10 秒だが、お互い理解し合うためには話すことが大切であることを再認識し、自分を理解してもらい相手を理解することで自他ともに生かし合うことの大切さを伝えていた。いくら思いを抱いていても黙っていれば何の意味も持たないというのも確かなことだ。

しかし、この 10 秒は何も伝わらない 10 秒ではなく、話すこと以上に話したいことが伝わった 10 秒だとも言えるのではないか。話す言葉を頼りに相手を理解するだけでなく、互いを理解するために沈黙という「ことば」もあるのではないか。

沈黙と言えば、神はなぜ沈黙するのかと問うことも多い。聖書には、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった」とヨハネは語る。そうであるならば、沈黙の神の中にある言(ことば)を探してみたいと思うのだ。

実は、タモリさんのメッセージを聞いて、何だかとても納得しながら、ここまで飛躍してしまったのだった。

「人間、お互い話せばわかる」なんてウソだから。
話せば話すほど言葉にだまされて、ますますわかんなくなる。
だから、
「話せば、わかる」じゃなくて
「離せば、わかる」だよ、
本当に。 

by タモリ

 

三田教会 神田裕

Silent Night... 

クリスマスの静寂の中で沈黙の「ことば」を探しましょう

より以前の記事一覧