“たかとり”震災語り ⑤ 追悼と新生のはざま
神学生時代を東京で6年過ごし司祭になって大阪に戻るとき、世話になった教会の人たちが送別会を開いてくださった。あるお母さんに「かんちゃん、これから結婚もしないで寂しくないの?大丈夫?」って言われた。続けて、「でもね、二人でいるのに寂しいよりずっといいからね」ってボソッとつぶやかれた。え、どういうことって思った。
1995年1月17日。被災地は孤立し孤独が襲ってきた。たかとり教会は瓦礫となり、そして救援基地となった。毎日たくさんの人々が入れ代わり立ち代わり来てくださり、仮設建物も皆で即席に作り寝泊まりして活躍くださった。寂しくなんかなかった。ただ同じ場所にずっといると心身ともに麻痺してくる。教会を離れるわけにもいかない。時々2,3日部屋に籠って出ない日があった。出たくなかったのだ。しかも月に一度のペースでそんな時がやってくることもあった。食事も殆んど取らずまるで修行僧だ。みんな心配してくれたけど、ほっといてくれたらそれでよかった。
独りになっている時はロクなことを考えない。仲間たちと一緒にいる時の方が寂しくもないし元気だ。でも自分の殻に閉じこもる時間も大切だと思った。心と体が要求したからだ。
“1.17追悼と新生の祈り in たかとり“ 毎年1.17にはたかとり教会で追悼の祈りをする。30年目だ。追悼は寂しさや悲しさを皆で共有するとき。そして新生は共に生きる力をつけるとき。そのはざまには、自分の孤独に引き籠り、自分に向き合う時間が必要だったかと思う。私には月に2,3日の引き籠りが必要だった。自分だけでなく人は皆、家族の中であったとしても所詮孤独で、孤独同士が互いに手をつないで生きているのだと思えば、決して寂しくなんかないのだと思えたからだ。それが新生の祈りだ。
災害後の歩みは人生の歩みそのものと言ってもいいかもしれない。短距離走ではなくてマラソンだ。他の人のペースに翻弄されないように、自分のペースを見つけて只管コツコツと、“出たとこ勝負”に挑むのだ。
三田教会 神田裕