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2022年9月17日 (土)

教会が潰れて燃えて初めて「教会」に

教会が潰れて燃えて初めて「教会」に
ゆるゆる多文化 いとをかし
たかとりコミュニティセンター
阪神淡路大震災から 10000 日

まちが燃え教会が燃え、消火活動もむなしく疲れ果て、近くの中学校へ避難した。教室にはすでに入りきれないのか運動場に 20 人ほどが車座になり石油ストーブを囲んで暖を取っている。よく見るとストーブの上にはなんとステーキがのっている。食べろと言われたが食欲もなく断った。すかさず声が聞こえた。「神父さん、こういう時はちゃんと食べなあかん!」。一口食べ、心強い言葉に安心し、震災初日、彼らと一緒に毛布にくるまり満月を見ながら運動場で寝た。

その時一緒にいた子たちが言った。「どこから盗んで来たんやと言われた。潰れた自分の家から食べ物を取り出し皆で分けて食べていたのに。悔しい!」。命からがら海を渡ってきた彼らのたくましさに勇気づけられながらも、この社会の中では偏見の中で暮らしていた。地震の中であっても変わらなかった。

1995 年 1 月 17 日 5 時 46 分。大地震が発生。一瞬にして街は崩壊し瓦礫と化した。教会の聖堂もなくなりなすすべもなかったが、日曜日にはみんなミサに集まってきた。避難所から教会まで歩いてきた。「主よ、あわれみたまえ」に涙した。たかとりの信者たちは、家も財産も失い、瓦礫の中に閉じ込められ、けがをした者もいたが、幸いにしてみんな命は助かった。着のみ着のままに集まった。生きて出会えたことを喜んだ。笑顔があった。その笑顔を見て思った。教会は潰れて燃えてしまったが、それでもここに「教会」があると。

たかとり教会は、1927 年に設立された。神戸市長田区に位置し、アジアの人々が多く暮らす町の中にある。教会には同じアジアの日本人はもちろんのことコリアの人たちも多く、多文化な教会としてスタートした。1950 年には幼稚園もでき地域とのつながりが深まっていた。1980 年代からはボートピープルとしてやってきたベトナム難民の人たちも加わるようになった。

1993 年に、ベトナムからキリスト像がやってきた。ベトナム、コリア、日本の人たちがともに手を取り合って暮らしていくことを約束したたかとり教会のシンボルだ。その台座には、思いの詰まったタイムカプセルが入っている。台座の前面には「互いに愛し合いなさい」と聖書の言葉が 3 か国語で書かれてある。聖堂の脇に立っていたので、被災したが、キリスト像は崩壊せず立ち続けた。「奇跡のキリスト像」と言われ、震災復興のシンボルとなった。

震災後すぐに、教会敷地内で「たきび」を起こし、暖を取りながら非日常の日常がスタートした。知った人も見知らぬ人も、どこからともなく二人三人とリュックに水と食べ物を入れて救援に駆け付けてくれた。そして、集まった人たちとともに、「鷹取教会救援基地」として活動が始まった。瓦礫の片づけや公園での炊き出し、避難所支援、仮設支援などなど。

大阪教区もすぐに住吉、中山手、たかとりを救援拠点として支援体制に入った。震災後、教区の基本方針、「大阪教区が目指す阪神大震災からの<再建>計画は、単に震災以前の状態に復旧することではない。キリストの十字架と復活(過越の神秘)の新しい生命に与る<新生>への計画である」が出された。教区は現場の判断を大切にしてくれた。

たかとりは明石、垂水、北須磨、鈴蘭台のバックアップ体制の中で活動が続けられた。大阪教区内外の小教区や個人も自主的に支援を続けてくれた。物資の支援はもちろんのことだが、何よりも直接に駆け付けてともに過ごしてくれたことが大きな励みとなった。

震災後のベトナム人支援として動き出していた学生たちや支援団体の人たちが教会に集まり出した。そして救援基地の中に「被災ベトナム人救援連絡会」が立ち上がった。震災後の神戸で最初に立ち上がったNGOだ。

長田の町はコリアの人たちが以前から多く住み、震災後もコリアの人たちの救援活動も独自で始まっていた。そして彼らが、ベトナムの人たちに思いを寄せてくれることで、電波を使っての救援活動が始まることになった。教会内にFM 放送局が誕生することとなり、多言語で震災情報を発信する活動が始まった。

大阪教区は、全国のカトリック医師会と連絡を取り、被災地の医療支援をはじめた。その拠点の一つがたかとり教会内にでき、近隣の診療所が再開されるまでの期間、全国のカトリック系の病院から医師や看護師を派遣してくださった。1995 年 4 月 16 日の復活の主日にその活動を終え、そのあとは、たかとり独自で「まちの保健室」として活動が継続されることになる。リーフグリーンの前身だ。

コリアの人たちの支援で動き始めた FM 放送は、その同じ復活の主日に、ミニ FM 放送局ユーメンとしてベトナム語他 4 言語でスタートすることになる。そして半年後の 7 月 17日に、「韓国語ミニ FM ヨボセヨ」と「ベトナム語ミニ FM ユーメン」が一つとなり、「ミニFM わぃわぃ」となる。

その後、全国からの支援金をもとに株式会社を設立し、教会敷地内に大きなアンテナを建て、1996 年 1 月 17 日に正式にコミュニティーFM 放送局として開局し 10 言語で震災情報を流し始めた。

震災救援活動は長くても3年で終えるはずだったが、震災からちょうど 1000 日になった日に、名称を「たかとり救援基地」と改め、これまでの救援活動から、日常生活への支援活動へと移り変わっていくことになる。すでに教会外で始まっていた活動と教会内で生まれていった活動も互いに連携しながら、日常の活動へと進化していった。

2000 年には、たかとりコミュニティセンターと名称を改め、特定非営利活動法人格を取得し今に至っている。地元地域の人たちに言われた。「教会に幼稚園がなくなって敷居が高くなっていたが、再び幼稚園が戻ってきた。子どもも大人も集う多国籍な幼稚園だ」と。

なぜ、教会内にこのような活動が今も続けられているのか。それは、ここに集う人たちが、「弱い立場に置かれた人々と共に歩む」教会としてキリスト者として生きているはずの私たちと、同じ使命をもって同じ目的をもってこの社会の中で生きようとしているからだ。単なる活動のテナント貸しでは決してない。

キリスト像の台座に書かれてある「互いに愛し合いなさい」は、教会と地域と NGO の三者が一つになって、それぞれの特性を生かしながら、同じ目的に向かうための言葉でもある。誰一人見捨てられることのないまちづくりを目指して。

震災時のとっさの判断は、思いつきのことではなかった。脳裏をよぎるのは、神学生時代に先輩たちや仲間たちとよく語っていたことだった。生き方の方向性を学んだ。

もう一つは、神父になってからだが、大阪教区の司祭仲間たちと未来を語り合ってきたこと。「勝手にヴィジョンを考える会」という集まりを持っていた。20 年、30 年先の教区を語り合っていた。たかとりでの震災救援もそのことが根底にある。

2022 年 6 月 4 日に震災 10000 日を迎えた。たかとりでの活動は今も続けられている。その活動は、10000 日前の思いと何ら変わることなく続けられている。まちがあり、教会がある。まちの中にある教会が「まちづくりひとづくり」として、外国籍であれ高齢者であれ、誰ひとり忘れ去られることのないまちをつくること。「まちづくりはだちづくり」は教会の言葉にすれば「福音宣教」だと思っている。教会が地域社会の中で福音宣教をするということは、地域に耳を傾け、人として生きるにふさわしい地域社会に貢献することだと思っている。

キリスト教国ではなく、宣教国としての日本のカトリック教会にあって考えることがある。それは、「グローカル」という言葉だ。グローバルな視野を持ってローカルを生きるということだ。カトリック教会はグローバルそのものだ。世界中どこへ行っても私の居場所がそこにある。大きな支えだ。

ただ、ローカルをおろそかにしてはならない。どこの教会に行っても、信仰上のグローバルな価値観は一致するのだが、ローカルな部分では同じであるはずはなく、もっと教会は、その地域の歴史や特性と深くかかわり、ローカルに根差した個性を持った教会であってもいいはずだ。どこの教会に行っても、グローバルなネットワークを強みとしながらも、他の教会にはないローカルな特徴があってしかるべきだ。ひとり一人がみな違うように、教会も違っていて当然ではないのか。

キリスト教国の教会中心ででき上がった町の中にある教会像は、宣教国で同じことをしていては、教会は地域社会の中で孤立したものになってしまうと思うのだが。

3年近く前、日本に来られたフランシスコ教皇が、東京ドームでのミサの説教で、「教会は傷ついた人を癒やす野戦病院」と語られた。この「野戦病院」という言葉に強くひかれた。「まちへ出かけていく教会」と勝手に解釈した。

「教会」は建物のことだけでなく、キリスト者そのもののことだと思っている。ミサから「まち」へ派遣されていく私たちひとり一人が「教会」だ。教会が潰れて燃えて初めて「教会」になったと、震災直後に思わず語った言葉は、今でも色あせることなく、そうだと思っている。

「ゆるゆる多文化いとをかし」と、ゆるやかに柔軟に地域とともに歩む「教会」でありたいとの願いも込めてのキャッチフレーズだ。それはもちろん、たかとりのことだけではなくてだ。

「奇跡のキリスト像」は、崩壊しなかったから奇跡なのではなく、教会と地域と NGO をつないでくださり、今も私たちと共に歩んでくださっていることが奇跡なのだ。

たかとりコミュニティセンター
代表 神田裕

TCC壁新聞
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https://tcc117.jp/

オリエンス宗教研究所
福音宣教 8、9月号

2010年7月 7日 (水)

初めてのボランティア

今から30年ほど前の正月のことを薄っすらと思い出しました。とある食堂のボランティアに行ったのです。食堂の奥では、おじさんがトントントントンと食材を刻んでいます。大きな鍋から湯気がムクムクと立ち上がって、刻んだ食材をおばさんがポンポンとほうりこんでいます。大きな炊飯器からはご飯の炊ける匂いがしてきます。味噌汁のいい匂いも立ち込めてきました。私は、食堂のテーブルを拭いて、茶碗やお箸、お皿などの準備に取りかかりました。

いよいよ開店です。入口を開けると、もうすでに長蛇の列。外は寒いです。並んでいる人たちの口元から白い息がフーっと出ています。食堂の中に入るとすぐにメガネが白く曇ります。私はレジの係です。お金は先に頂きます。並んだ人たちは次々にポケットからお金を取り出して渡します。出されたお金に応じて、ご飯やおかず、味噌汁を配ります。真ん中あたりで並んでいたヨボヨボのじいさんが先頭まで来ました。ギュッと握った右手の拳が指し出されました。ジッとその拳を見つめました。力の入った右手の拳が少しずつほぐれて、しわしわの手の中から汗で光った100円玉が出てきました。しばらくジッとその100円玉を見つめていました。薄っすらとした記憶の中に、その手の中の100円玉は今でも鮮明に記憶の中に残っています。きっと精一杯、段ボールを集めた報酬だったのでしょう。

初めての釜ヶ崎。食堂に行くまでの道のりは勇気がいりました。体験したことのない不思議な空間で、正直、背筋がゾクッとしました。目を合わさないように小走りで通り抜けました。緊張の中でボランティアをしていました。でも、そのじいさんの右手の拳が少しずつほぐれて行くと同時に、私の心もほぐれて行きました。ボランティアをすることで、人の表面ではなく、人の人生を思うことが出来ました。

 

神田裕
Volo (ウォロ)7・8月号 (No.457)

2010年1月 1日 (金)

震災とキリスト像とベトナム人

震災で焼失した長田のまちの片隅に教会がある。カトリックたかとり教会だ。焼け残った奇跡のキリスト像で話題になった。何が奇跡かと言うと、キリスト像が火を止めたというのである。まさかそんなことはない。

キリスト像は1992年にベトナムから船に乗ってやってきた。いわばボートピープルだ。不審物の疑いがあると1カ月ほどは港から出してもらえなかった。やっとのことでたかとり教会にやってきた。

たかとり教会に最初のベトナム人家族がやって来たのは1980年のことだった。ベトナム脱出を何度も失敗し投獄され、やっとのことで日本に、そしてたかとり教会にやってきた。ちょうど15年たった1995年1月17日早朝、大きな揺れに揺り起こされ、気が付いたら潰れた家もろとも外に放り出された。貧しい家に住んでいたから自分の家だけが突然潰れたと思い、その瞬間子どもたちはとても恥ずかしかった。幸い家族みんなの命は助かった。

当時たかとり教会のベトナム人たちは信徒全体(約650名)の三分の一程になっていた。みんな家や職は失ったものの命だけは助かった。被災者はみんな、学校の校舎や公園のテントで生活をした。ベトナム人たちももちろん同じだった。ただ言葉や文化や習慣の違いで別の苦労もあった。

そんな彼らと共に歩もうと、全国から多くのボランティアの人たちが駆けつけてくれた。言葉のハンディや文化や習慣の違いを一緒に担ってくれた。教会の中に救援基地ができ、震災復興や新しいまちづくりに力を尽くしてくれた。震災情報の通訳、翻訳、そして電波を使っての多言語情報伝達FM放送局へと発展していった。地域のお祭りでもベトナム料理が食べられるようになり文化も少しずつだが浸透してきた。

救援活動からまちづくりへとの思いを持って、2000年にたかとり救援基地はNPO法人格を取得し、たかとりコミュニティセンターとなった。2007年5月には教会建物もようやく再建され、その中にNPOセンターやFM放送局も共存している。多文化なまちづくりの新たなスタートが始まっている。

つい先日、たかとり教会で一人のベトナム人女性が帰天した。くも膜下出血での突然死だった。子どもたちのために働き続けたのに、小学生の末っ子を含め4人の子どもたちを残して神様の元へと行ってしまった。彼女が小学生の時、ボートピープルとして親に連れられ命からがらこの日本にやってきた。神様に守られて命があることに感謝した。それから15年目に震災にあった。家は潰れたが、やはり神様に守られて命があることに感謝した。それから15年。神様は「ご苦労さん、もういいよ」と言って彼女を身元にお呼びになった。まだ若いのに何故に「もういいよ」なのかは私には理解できない。

たかとり周辺のまちづくりにとっては色んな意味でベトナム人たちの存在はとても大きい。彼らを取り巻く人々の力がこの地震の後のまちを支えてきたと言っても過言ではない。彼らがたかとりに住み始めてちょうど30年たち、震災を挟んでちょうど折り返し地点に差しかかった。これからは2世、3世たちが新しい時代を創って行ってくれるのだろう。

キリスト像が奇跡を起こしたと騒がれた。そんなことはないと自ら否定した。しかし15年たった今、もし問われることがあったとすれば、きっと言うだろう。キリスト像は奇跡を起こしたと。30年前に船に乗って私たちのところにやってきたベトナム人たちは、本人たちの意識のせぬところで、たかとり、そして神戸のまちづくりの大切な要素になっている。

キリスト像の台座にはベトナム語、韓国語、日本語で聖書の言葉が刻まれている。「互いに愛し合いなさい」と。お互いを大切にし合って関わるならば、きっと奇跡は起こるのだと確信している。

2010年1月17日。私たちは震災から15年を迎える。

神田裕
朝日21関西スクエア

2006年5月 1日 (月)

ブルーシート

大地震があった。まちが潰れて燃えた。すべてなくなった。

次の日から数え切れぬほどのボランティアの人たちが来てくれた。若い人たちが多かった。救援基地が立ち上がった。寝泊りしながら活動を続けてくれた。がむしゃらにがんばった。2,3ヶ月たったころ悩み始めた。「僕ら遠いところからやってきた。力仕事を手伝った。でもほんとに役に立っているんだろうか?」。

ある日、避難所に行かず崩れかけの家でがんばっているおじいちゃんから連絡が入った。雨漏りするから直してくれと。何人かが駆けつけた。彼らは戻ってきてから言った。「もうおじいちゃんのところには行かない!」と。あれこれとうるさかったらしい。また雨漏りがすると連絡が入った。仕方がないのでまた行った。作業が終わればまた行きたくないと言った。作業をしているとおじいちゃんは屋根まで上ってきてあれこれとまたうるさく言うらしい。屋根に上れるんだったら自分でしろと彼らは思った。それでも何度も連絡してきた。嫌々ながらそのたびに彼らは行った。。。聞いてみれば、おじいちゃんの家に行くといつも、まず部屋でジュースを出してくれるそうだ。しばらく話してから作業が始まる。

ある晩、彼らの中の一人が言った。「僕たち若いし力があるから、こうやって破れた屋根にブルーシートを張ってきた。でも僕らがここに来た意味は違うんじゃないか。ほんとうは屋根じゃなくて、おじいちゃんの破れた心にブルーシートを張りに来ているんじゃないか」。

この時から、彼らはまた元気を取り戻して救援活動を続けて行ってくれた。

 

神田裕
こどものせかい・にじのひろば 5月号原稿(2006/05)

1999年5月16日 (日)

被災地のボランティア活動

NGO(市民活動)が少しずつ力(夢)をつけてきたと思ったけど、やっぱりちゃうなぁ。GO(行政)も信用なんてしてへんし、育てようとも思うてへん。便利に利用するだけや。NGO(ボランティア)の言いなりにならんようにとあたかも言いたそうや。震災で失いかけた力(威信)を取り戻すことがどうも仕事のようや。大人の関係には程遠い。もしかしたらこっちもへたするとGO(権力)と一緒にするのが力(継続)やと思てたのかもな。違うわなぁ。もっと力(体力)をつけなナァ。NGO(心)がすたれんために…。

と、ついつい愚痴をこぼしてしまう今日この頃だ。

震災後、被災地でよく活躍したのはボランティア(NGO)だった。確かに一人ひとりの優しさが被災地を勇気づけてきたことは誰も否めないことだ。行政(GO)もそのことはよく知っているはず。でも、よう育たないし、よう育てない。管理下になければ支援できない、といったところか。NGOがまだ幼いのか、それともGOのプライドが邪魔するのか、信頼関係ができるのはまだまだ先のことのようだ。ボランティア(NGO)はあの時のことであって、日常へはなかなか引き継がれては行かない。育ち方が見つけられない。

被災地内のボランティア団体(NGO)のひとつに「たかとり救援基地」がある。震災時に駆けつけて来たボランティアの人たちによって作られてきた。今現在は「コミュニティーFM放送局・FMわぃわぃ」「神戸アジアタウン推進協議会」「神戸定住外国人支援センター」「アジア女性自立プロジェクト」「パストラルセンターたかとり」などの各団体が同じ敷地内で活動を続けている。ここもこれからの育ち方が大きな課題だ。

震災5年目の今年、その第一歩としてNPOで法人格をとり、「救援基地」は「たかとりコミュニティーセンター」となる。今のところ法人格を取ったところで、育ち方に大きな進展が生まれるわけではないが、大事なことがひとつある。それは法人の構成メンバーだ。各NGO団体、地元地域まちづくり、地元の外国人学校、教会など。内容は「NGOを育てるNPO」をつくるということになる。具体的なことは見えてこないが、気持ちだけは一歩進んだようだ。

現代社会にとってあらゆる分野でますます必要とされるボランティア(NGO)。本当の意味での生きることの豊かさを生み出して行くこの大事な要素をこの社会がどう育てて行くかによって21世紀が創られてゆく。

GOだけでは豊かな社会は育たないのとちゃいますか。

 

神田裕
朝日21関西スクエア(1999/05)

1999年2月20日 (土)

見にけぇへんの・神戸…21世紀へのかけ橋…

アッと言う間の出来事だった。神戸は大地震に襲われた。ほんの一瞬が多くのいのちを吸い込み、大切なものを奪い去った。嘆き悲しみと悔しさのどん底に叩き落された。そしてそこには絶望しかないと思っていた。

しかしそれは違っていた。人々は不思議な体験をした。こんなに破壊され毎日瓦礫の山を見て暮らしていたのに、なぜかしら心がやさしくなっていた。お互い声を掛け合うことが何のためらいもなくできた。まちづくりの第一歩がはじまっていた。

「まちづくりはダチづくり」が合言葉だった。ダチには国籍や宗教、文化や習慣の違いの壁はなくなっていた。まだ見ぬまちをひたすら創りはじめた。地震は古い価値観を滅ぼし、新しい価値観を生み出しはじめた。

がむしゃらに走ってきた3年。石の上にも3年というのに、それでも現実は厳しかった。不安と寂しさの中に戻ってしまい、疲れ果て、自分自身を見失いかけた4年目でもあった。
地震から5年目に入った。色んな問題や課題を残しながらも、地震以来、神戸は21世紀の未来を見て確かに歩き始めた。

来年のことを言えば鬼が笑うかもしれないが、神戸の5年間を東京へ持って行こうと思っている。題して「神戸からこんにちヮ。1.17 eve in TOKYO」。地震の中で‘21世紀の未来をちょっと見た神戸’をつたえたい。神戸を語ることは21世紀を語ることそのものだ。そんな神戸、見にけぇへんの。

神田裕
ソウル・フラワー・モノノケ・サミット機関紙(1999/2)
cf:「神戸からこんにちヮ。1.17 eve in TOKYO」は実現しなかったです。

1998年8月20日 (木)

シン・チャオ・カック・バン!

シン・チャオ・カック・バン!(こんにちは)

震災後の3ヶ月。まだ傷あとも痛々しい被災地・神戸市長田区の空にベトナム語で電波が飛び立った。ミニFM局の開局である。灰色の街に小さな花がひとつ咲き、外国人との共生のまちづくりが始まった。

神戸には七百人以上の定住ベトナム人が生活していた。戦争という人災を経験し、海を渡りながら自然災害をも乗り越えてきた彼ら。しかし今度は地震という自然災害に遭い、もう一度人災を経験しなければならなくなった。

「避難場」という言葉が分からない。公園でテント生活を始める。避難場でのいやな視線に耐えられない者も後から公園へ。子沢山なベトナム人も多く、遠慮してまた公園へ。「ベトナム人はそこに居着くのではないか」と神経を尖らし圧力をかける行政。「ベトナム人にやる水は無い」「食料を何処で盗んで来たんだ」「火をつけ回っているぞ」と非人間的な言葉を浴びせる住民。国籍が違えば人格は無くなるのだろうか。

ちょうど1年後、ミニFM局はコミュニティーFM放送局として正式開局をする。今度は8言語でのまちづくりが始まった。またそれと同時にボランタリーな日本語教室プロジェクトも本格化してきた。

被災地は仮設住宅での生活が始まった。家族の多いベトナム人たちは数人で一つの仮設住宅だった。声が大きく大らかで陽気なベトナム人たちは薄壁一枚での生活が隣人とのトラブルを招いた。「やっぱり公園がいい」と戻る者もいた。

2年たち、今度は街の標識の多言語化プロジェクトが始まった。避難場、病院などが何処にあるのか住民の誰もが知っていてほしい。そんなまちづくりも始まった。病院内や役所内の案内表示の多言語化も呼びかけが始まった。

その頃、「ベトナム料理は臭い。迷惑だ。日本の料理を食べろ」と怒鳴る人まで出てきた。言葉は少しずつ学ぶことはできても身についた生活習慣や文化は変えることはできない。共有してこそ豊かな街ができてゆく。ほんとうの国際都市はここに魅力がある。観光や外交だけで国際都市にはなり得ない。。

3年がたち、神戸の祭りには少しずつ外国料理の屋台が並ぶようになってきた。地道なプロジェクトだ。神戸に住む外国籍の人たちが自信を持って自分たちの文化を伝える場が少しずつだが出来てきた。ベトナム料理などもファンが出来てきた。これから何年たてば祭りから日常へとなってゆくのだろう。

もうすぐ4年を迎える。能力があっても適切な仕事に就けない。不況の煽りだけの問題ではない。民間住宅の外国人お断りの入居拒否は後を絶たない。何にも変わらない。ただ地震以後、みんな夢だけは捨てなくなった。

今日、ベトナムから2台の乗り物が救援基地に届いた。もうすぐ神戸の街にシクロ(ベトナム式人力車)が姿を表すことになる。

1998年4月21日 (火)

異国情緒あふれる地域社会へ

異国情緒あふれる観光都市として名高い神戸。昔からたくさんの外国人が住み、まさに国際色豊かな街として歩んできた。そして外交、貿易など港町として発展してきたこの街は国際都市とも呼ばれてきた。

そんな神戸を自然は襲った。阪神淡路大震災である。ほんの僅か十数秒の地の揺れが神戸の街を破壊した。お洒落な街は一瞬の内に瓦礫の街へと化してしまった。多くの人が犠牲になった。家を無くした人々も数えられない。日本人も外国人も皆同じように被害にあった。地震の被害には国籍の差はなかった。でもそれは本当かな。

震災にあったその日、人々は避難場へ逃げ込んだ。しかし避難場という言葉が分からずウロウロする外国人の姿があった。標識も漢字での表記だけなので読めなかった。行政から出される大切な情報もすべて日本語だった。日本に住んでいるのにどうして日本語ができないのかと平気で言う災害担当官もいた。仲間が集まって食べ物を分け合っていたら、それをどこから盗んだんだと言われた外国人たちがいた。外国人が被災地で火を付けてまわっていると言うデマも一時あった。

このような外国人に対する偏見は震災後4年目を迎えた今でも変わらない。と言うより震災以前からの問題がそのまま残っていると考えた方がいい。外国人たちと共に復興の景気付けにと短期の屋台村を計画した時にも治安が悪くなると地元に反対された。自力で民間の住宅に入ろうとしても外国人お断りの入居拒否はあとを絶たない。職業安定所での就職斡旋は外国人には皆無に等しい。国際都市と名がつく神戸であってもここは外国人にとってはとても住みにくいところだと震災後あらためて知った。

地域社会における問題だけでなくもっと大切な生命に関する問題もある。国は医療に関しては健康保険で対応した。保険証を持っている者は一部負担金も免除され治療費などは助かった。しかし保険証を持てない短期滞在の外国人たちは地震関連での入院費をすべて自費で支払わなければならなかった。それでは災害救助法でと思うがそれもダメ。救護所の設置が間に合わず直接病院へ駆けつけた者は対象にならないらしい。何の為の災害救助法なのか。また長年神戸に住んでいてもビザの期限が少しでも過ぎていれば死亡した者への弔慰金も出なかった。税金は同じように払っているのに生命の保証はされていない。

そんな中、外国人たちの支援をしようと集まってきた仲間たちがいた。もちろん多国籍。そして新しい動きが始まった。「被災ベトナム人救援連絡会(現在:神戸定住外国人支援センター)」は震災後にできた最初の動きで、外国人への震災情報の伝達を主な活動内容とした。そしてその活動の中から今度は電波に乗せて情報伝達をとコミュニティーFM放送局「FMわいわい」が誕生し多言語で神戸の街にメッセージを送っている。「NGO外国人救援ネット」は震災時に発生した外国人の医療費の問題から始まり、今は電話ホットラインで外国人の生活相談窓口を開いている。以上これらはソフト面での支援活動である。「神戸アジアタウン推進協議会」はハード面の支援活動を目指す。アジアの人たちが多い神戸・長田をアジアの街にしようと活動する。街の案内板を多言語標示にするプロジェクトもその一つだ。

このように見てみると震災後にできた外国人支援のネットワークは4年目に入り「救援」から<まちづくり>へと移り変わっている。外国人が直面するさまざまな問題は「かわいそうな外国人への手助け」ではなく、同じ市民として共につくりあげてゆく多文化共生の<まちづくり>を通して初めて解決の糸口が見つけられる。違いを共有することは豊かさを生むことだ。外国人と共に同じ仲間として暮らして行くことによって成長した豊かな社会を築くことができる。そこにはもう外国人という言葉はいらない。

異国情緒あふれる観光都市は異国情緒あふれる地域社会となって始めて国際都市となる。自然災害である地震には負けたけど、新しいものを創り出して行くことによって地震に勝ってゆきたいと思う。

神田裕
朝日新聞・論壇 (1998/04/21)

1995年12月 1日 (金)

地震に打ち勝ってゆきたい

あの地震はたくさんのものを奪い去ってゆきました。家や財産、親しかった家族や友人、そして希望や夢をです。しかし、大切なことも発見することができました。今まで知りませんでした。こんなにもたくさんの仲間が私たちのまわりにいるということを。孤独な私たちに少し勇気を与えてくれました。これからもその友情をたよりに長い旅を続けてゆきたいです。見たことのない未来を切り開くことによって地震に打ち勝ってゆきたいです。

神田裕
神戸新聞掲載(1995/12)