記事☆教会報その他

2006年4月16日 (日)

そばにいる

今年2006年の暦はちょうど11年前の1995年の暦と同じだ。毎日毎日があの時と重なってよみがえってくる。

3月1日は灰の水曜日。四旬節が始まった。当時はたかとりの敷地内ではまだ瓦礫がそのままになっておりまったくの野外で式を行った。「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」。このことばとともに、みなはひとりひとり頭や額に灰を受けた。重たいちりだった。辺り一面はすべてがちりになっていたからだ。説教は必要なかった。そのままの典礼のことばがそのまま心にしみた。

四旬節の間に鵯越の墓地に何度か行った。ある時そこに桜の木の大きな枝が2つ落ちていた。これはいい。教会に持って帰り、小枝を切り落とし、2本を重ねて、大きな十字架が出来上がった。4月14日の聖金曜日の典礼のためにちょうどその十字架は役に立った。鵯越の墓に眠る人たちの元にあった木の十字架で彼らと共に主の受難の日をむかえた。

4月16日主の復活の日。名実ともに震災後初めての節目を迎えた。3ヶ月近く続いたたかとり教会内の臨時診療所は一応の役割を終え終了した。震災直後から全国の医師や看護師のみなさんがボランティアで被災者の治療や手当てにいつも私たちのそばにいて活躍してくれた。その活動はその後「まちの保健室」と名前を変え、避難所や仮設住宅への支援活動として続けられ、今は高齢者・障害者支援のNPOリーフグリーンへと引き継がれている。また同じその日、コミュニティFM放送局「エフエムわぃわぃ」の前身であるミニFM放送局「FMユーメン」が敷地内で開局した。現在は8言語で神戸に電波を発信し、インターネットでは世界に向けて多文化豊かなまちづくりのメッセージを発信し続けている。今日が明日へとつながってきた。

今年も3月1日から四旬節が始まった。兵庫とたかとりは灰の水曜日と聖週間は合同で行った。いつもより豊かに感じた。しかしそれは人数がいつもより倍以上いたからではない。本当はいつも時を同じくして別の場所で典礼に参加している数は同じなはず。ただ実感として今、目の前にいるかいないかの違いだけなのだ。想像ではなくて、今目の前にいることだけでこんなにも豊かさや喜びが違うものなのだ。「愛しているよ」って遠くで言葉で100万回言われるよりも、黙ってそばにいてくれるだけでも、それの方が嬉しいものなのだ。それだけで明日を見ることが出来るものなのだ。

そして今、喜びを持って復活の日を迎えた。何で喜びなんだろう。何が喜びなんだろう。それは、想像ではなく、実感として今、そばにいらっしゃるから嬉しいんだ。そしてそれだけで明日を生きることができるんだ。

ところで、、、私たち、、、ほんまに実感してるのかなぁ?

神田裕
パンダネ(兵庫教会報)2006/04

2004年10月 1日 (金)

教会名称変更

カトリック大阪大司教区 池長潤大司教様
                                           
 神戸中ブロック・モデラートル 神田裕
 カトリック鷹取教会 評議会   川福久男

 

カトリック鷹取教会名称変更のお願い

カトリック鷹取教会は、1927年に設立されましたが、68年目の1995年に阪神淡路大震災により建物が消失しました。この大震災の犠牲者は6,500人を上回り、鷹取教会が位置する長田区の町も震災後の火災で多くの犠牲者を出し、たくさんの住いが倒壊しました。そんな中、鷹取教会の信徒の多くも住むところを失いましたが、命を失った人は一人もいませんでした。

そのことに励まされ、そして多くのボランティアの人たちに支えられながら、「まちが復興するまでは教会は建てない」という方針の下、教会は、「鷹取教会救援基地」の名で救援活動を始め、1,000日目には「たかとり救援基地」と名を改め、教会内だけでなく、地域の救援活動拠点として歩んできました。

この「たかとり救援基地」は、2000年にNPO法人格を取得し、「たかとりコミュニティセンター(TCC)」と再び名を改め、緊急救援活動から多文化共生のまちづくりへと発展してきました。そして、2005年には大震災10周年を迎えます。これまでペーパードームやプレハブで活動をしてきたこの教会も、建物の再建へと進んでいきます。鷹取教会にとってこの10年は教会の「新しい姿」への挑戦でもありました。そして建物の再建は未来への「新しい姿」へのシンボルとなります。これを期に、新たな歩みを始める鷹取教会そのものが、まさに洗礼を受ける者のように名称も新たにし、新生への歩みを確かなものにしたいと思います。

そこで、2004年9月19日に開催されました小教区総会に、2005年の震災10周年の日を機に新名称を「カトリックたかとり教会」とすることが提案されました。これは、漢字表記「鷹取」を平仮名表記「たかとり」と変更するだけのように見えますが、鷹取教会にとっては、単なる表記変更ではなく、下記のような意味をもつ、名実ともの変更をも目指すものです。この趣旨を小教区の皆さんに説明し、地域的(歴史)背景の認識にたっての意見も聴取しました。その結果、満場一致で承認されました。これを受けて大司教様を始め教区の顧問の皆様に名称変更のお願いをいたします。

名称変更の主な理由は、次の通りです。

 

1 新たに歩み始めるシンボルとして
2 「鷹取」の漢字は、教会に多くいる外国人信徒にとって読み書きがむずかしい
3 近隣に同名の教会がありお互いに紛らわしい
4 大震災以来、 たかとり が、教会もセンターも含む固有名詞化してきている

ps:
2005年1月17日にカトリック鷹取教会はカトリックたかとり教会と名称を変更する。

 

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たかとり 鷹取 高取

日本書紀に「ながたのくに(長田の国)」の地名があり、作物に適した長い(広い)田が続く土地柄を表現しております。人々はこの豊かな地に住み着き、小部落があちこちに誕生し、やがて大部落となっていった(里から郷<さと>へと発展していった)。当時の人々は、自分達の住む「ながたの里、ながたの郷」の守り神として「神は山におられる」の素朴な山岳信仰で、里や郷の何処からでも遠望できる山を「かんなでやま=神が存わします山=神撫山」と呼び、守り神への信心を保ち続けた。また、「ながたのやしろ(長田神社)」は神功皇后が創建したとの日本書紀の記述もあり、人々は長田の守り神をして神撫山と合わせて信心を続けた。645年の大化の改新により長田の国は雄伴郡(おともぐん)と呼ばれるようになり、かんなでやま=神撫山と呼ばれていた信仰象徴の山も、当時、鷹が多く生息していたので「たかとりやま=鷹鳥山」と呼ばれるようになり、やがて、「鷹取山」と呼ばれるようになった。平安時代になり生田、神戸、宇治、八部(やたべ)、長田の五郷を総称して摂津の国・八部郡と称するようになったが、鷹取山=神撫山の名は江戸時代まで続いた。江戸時代になり現在の高取山と改められたが、別名の神撫山の名は今も語り継がれている。このように「たかとり(鷹取)」の名は古代から長田の村人達に語り継がれてきた由緒ある名であり、また村人達が朝な夕なに遠望し合掌し祈った信仰の象徴をして、大切に守ってきた名であり言葉である。日本人は神様を素朴で親しみ易い呼び名として、昔から[さん付け]をしてきました。人々は神撫山を神撫さん、鷹取山を鷹取さんと呼び、山の名を[さん付け]して神格化したと思われます。祇園さん、戎さん、八幡さん、権現さん等々の例があります。村人は秋の収穫が終わると、大地の恵みに感謝して「たかとり詣り」「ながた詣り」をしたと古文書に記されており、「たかとり(鷹取)イコール神」という観念が定着していたと考えられる。このように「たかとり(鷹取)」という名(言葉)は、土着した庶民信仰の<よりどころ>とも云える<心の支え>が込められている奥深いものと考えられます。鷹取教会が誕生した当時は、昔は長田の郷の野田村と呼ばれていた。野田村は長田の郷の最も西に位置しており、「たかとり詣り」をするのに長い道程を歩き山を登らねばならなかった。そのため、「たかとり詣り」ができない人が地元で参拝ができる「御旅所<おたびどころ>」が設けられ、ここで参拝すれば「たかとり詣り」を果たしたことができるようになった。この御旅所が野田村の西端(現在の須磨区鷹取町)にあったのではないかと考えられ、鷹取町という地名は御旅所に由来しているのではと考えられる。なお、JR鷹取駅の名称の由来について駅に照会しましたが、昔の事はまったくわからない・・・の回答でした。
1910年(明治43年)に天主堂が完成した下山手教会は、ペリン神父様のご努力により信者が増加し、大正の末期には信徒数は千数百人に達して天主堂は手狭になったので、カスタニエ司教様は下山手より西の地に教会設立を考えられ、1927年(昭和2年)に下山手教会助任のジュピア神父様を派遣され、当地に教会を設立された。昔は野田村と呼ばれていた当地は教会創立当時には海運町と改称されていた。海運町という名称の由来はその昔、当地に正福寺という寺があり、寺の山号は海運山と呼ばれ「海運山正福寺」と称していた。この「海運」が現在の「海運町」として残ったものである。しかし、この寺はやがて廃寺となり野田村史から消えてしまった。
カスタニエ司教様が、どのようなお考えで「鷹取教会」と名付けられたかは分かりませんが、私が思うには、古代から当地に土着した信仰心の中で守られてきた「たかとり詣り」「信心」「神格化された<たかとり>」という言葉を、司教様は大切にしようと思われ、福音宣教にとっても、この伝統的な言葉を新教会に名付けることが良い・・・と考えられたのではと身勝手に納得しております。
いずれにしても、この「たかとり=鷹取」という名は、古代から当地に受け入れられ、呼ばれ続け、語り継がれてきた歴史的な言葉であります。
神の慈しみを意味する古代の言葉「かんなで=神撫」に通じる「たかとり」、個人として大好きはことばであり、新名称として大賛成です。
なお、昔の当地の海岸線は現在の国道2号線付近であり、漁民達も多く住んでいたようです。海の幸に恵まれたこの海浜を漁民達は「ながらのはま(長楽の浜)」と呼び、安住の地として営みを続けていたようです。「ながらのはま」の長楽、これが長楽町の名称由来です。また、海運山正福寺の山号も、漁民の守り神を尊敬するという意味から名付けられました。
以上、不確実な点もありますが、お知らせいたします。
2003年11月
川福克己

2000年12月 1日 (金)

何を待ちますか?

何週間から前から教会の敷地内の東屋にごみやタバコの吸殻がやたら散らかっているのが気になっていました。しばらく様子を見ているとそのワケがわかりました。夜な夜な近所の高校生らしき若者達がこっそりひっそりと教会の中でたむろしてたのです。

かなんなぁ。難儀やなぁ。気安く教会を出入りしてくれるのはいいがタバコを吸ってたむろされてはたまらない。注意して追い出そうか。どうしようか。相手は茶ぱつや金髪にピアス。おまけに体もデカイ。勇気がいる。

でも思い切って声をかけてみた。そしたら「おっちゃん誰や」と言われてナメられました。1回戦敗退。しばらく様子を見てまた「タバコは吸うな」と言ってみた。「はいはい」と言って簡単にカワされました。2回戦失敗。またしばらく様子を見て今度は昨晩に残していった彼らの散らかしたゴミやタバコの吸殻を集めて彼らの前に投げつけ「おまえらナメとんか」と思わず大きな声で怒鳴ってしまいました。どうしよう。カカッテクルかなぁ。・・・と思ったら、タバコを吸っていた彼らの手がピタッと止まった。「今日は出て行け。1週間立ち入り禁止や。1週間後にもう一回ここへ来い。そして話ししょ」と続けざまに言ってみた。私自身、本音を言うと「もう来んでもええ」と思っているのに、なぜか口から出てきた言葉は「1週間後にもう一度ここへ来い」だった。彼らは大人しく教会から出て行った。

それから1週間待ちました。「彼らちゃんと来るやろか」「もうけぇへんのとちゃうかな」とか何とか、気になって仕方がなかった。「来てくれるな」という思いはもうなくなり、彼らが来ることをいつの間にか待っていました。「何でこうなってしもたんやろ」とふと考えてみました。それは・・・彼らの目を見たからでした。たちの悪い不良たちの目はよくみると純粋な子供の目をしていました。

1週間後に彼らは来ました。とてもうれしかったです。待ったかいがありました。話をしました。教会でたむろしたかったらボランティア・クラブを作れといいました。そしたら彼らは「ヒマジン・クラブ」という名前を付けました。中身はこれからです。

21世紀の始まりに神戸は震災7年目を迎えます。これまで大人たちが乗り越えてきた「まちづくり」は彼らが引き継いでくれなあかんのです。祈るような気持ちです。

もうすぐクリスマス。キリストの誕生をひたすら待つ待降節。ところであなたは何を待ちますか?

神田裕
テレフォン・サービス (2000/12)

2000年8月 1日 (火)

ジグソーパズル

みなさん、こんにちは。お元気ですか?広報委員会から原稿の依頼がありました。ハッとして気が付けばシャロームに投稿するのは9年半ぶりなんですね。ビックリ!みなさんと時と場所をともにしていたときからもう10年もたってしまったのですね。ここ鷹取での10年もいろんなことあったけど、玉造でのたった1年も色濃かったなぁ。実はこの10年よりもしんどい1年でした。

覚えています?一度説教の時に説教ができないと言った時のこと。もう大変。そういう説教だったのに後でえらい説教されました。ちょうど3年目だったんですね。そうそう、1年かけてみんなで作った大きなジグソーパズル。今でもあるのかな。聖書の勉強会が終わった後なんかにみんなで作りましたね。パズルのひとつひとつ、その時に何を悩んでいたか今でも覚えています。そして完成しました。嬉しかった。完成することによって3年目を乗り越えることができました。ひとりでは完成しなかったよ、きっと。完成しなかったら鷹取での10年もなかったよ、ほんと。

鷹取でも震災直後に玉造でのことを思い出してもう一度ジグソーパズル作りに加わることにしました。今度はもっと大きいまちづくりパズルです。今度はちょっと手強い。何せ完成図が入っていないのです。おまけにパズルのひとつひとつが時々勝手に形を変えてしまう。質の悪いことに他のパズルを弾き飛ばすパズルもいる。そしてもっと質が悪いことがある。それは自分もパズルの一つやということ。これはかなん。ひとごとで言うてられへん。悲しくて涙したこと...辛くて逃げたかったこと...悔しくてからだが震えたこと...嬉しくてこころが震えたこと...楽しくて生きててよかったと...などなど。ひとつひとつのパズルは生きとる。だからもっと楽しい。

そういえば最近、教会もジグソーパズルを始めましたね。今まで大昔に描かれた絵を鑑賞するだけやったけど、その絵も時代に合わずにバラバラになってきてた。絵を描きなおす必要はない。完成図は神さまの心の中にある。だから祈りながら神さまの完成図を参考にしながらみんなで力を合わせてこの時代にそして次の時代に生きれる絵に組み直すんやね。新生計画も集会祭儀も新しい時代に向けての挑戦ですね。

私にジグソーパズルの喜びと楽しさを教えてくれたのは玉造でしたよ。また一緒にジグソーパズルに挑戦しましょうよ。

神田裕
玉造教会シャローム8月号(2000/08)

1998年4月 1日 (水)

宗教者による神戸メッセージ

震災からちょうど3年に当たる1998年1月17日に神戸から一つのメッセージが発せられた。「いのり 追悼と新生 - 宗教者による神戸メッセージ」。それは、震災後の神戸で出会った仲間との出会いそのものが作り出したメッセージだ。

《突如襲った阪神・淡路大震災は、私たちに未曾有の被害と絶望をもたらしました。犠牲になられた方々への無念は尽きることがありません。それと同時に、残された私たちの日常も苦渋に満ちたものでした。生きることの苦しさを嫌というほど味わいました。しかし私たちは、それにもめげず微かな希望に支えられて、これまで生きてきました。その希望の源になったものは何か。それは自分の隣にいる人々との出会いそのものでした》

その日はまるで悪夢でも見ているようだった。作られたものは尽く潰され、自然に対する人間の無力とこの世の儚さを知った。一瞬のうちに6千数百人もの生命が奪われ、生き残ったものたちは裸足のままで布団や毛布をまとって逃げ惑った。そんな中でも近所の人たちは生き埋めになっている者や病院のベッドの上で動けなかった者の救出を即座にしていた。それは自然な行動でした。しかしそんな自然なことさえもしなかった自分がいた。しなかったというより出来なかった。それは出会いが今までなかったからだった。教会の中でしか出会いがなかったからだ。だから動けなかった。震災後、まちづくり協議会の中に入れてもらった。少しずつ地域のことが分かってきた。自分の家づくりのことより町づくりに力を注ぐ者たちがいた。こんなにも魅力的な人々がこの地域にいたなんてことを知らなかった。今まで出会っていなかったことが残念でならなかった。

《私たちは、不思議な体験をしました.成す術が分からない、そんなさ中にもお互い助け合うことができました。優しく声をかけることもできました。そこには普段、人と人とを隔てている壁のようなものは無くなっていました。隣との壁、国籍の壁、そして宗教の壁です。お互いが助け合うという自然にできた優しさが、そんな壁をも打ち壊したのです。そこには生きるために国籍や宗教の別は必要ありませんでした。生きていることそのものがすべてでした》

すべてを失って呆然と立ち尽くす中では今を生きるのが精一杯だった。でも何故か素直になれた。優しくもなれた。食べ物や水を分け合った。家が大丈夫だった何人かの人から連絡があった。「家を失った人に一室を提供します」と。持っているものを分け合おうと自然に思えた。自分だけの物は要らないなとみんなそう思った。今まで要らない物をいっぱい持ち過ぎていたんだなということも知った。
国籍や宗教を超えての救援活動が始まった。地域の外国人が企画した炊き出しに日本人が食べにきていた。イスラム教の人たちが教会を出入りしていた。自然だった。また、動いたのは地元地域の人たちだけではなかった。全国からたくさんの人たちが駆けつけてくれた。被災地の中ではボランティアも被災者も同じだった。すべてが肩書きを捨て、一人の人間として生きていた。そこで出会った仲間は数え切れない。人生を2,3回経験したぐらいの仲間に出会ったようだ。

《しかし、それは束の間の出来事でした。時がたつにしたがって街は少しずつ復興し、それと同時に人と人とを隔てている壁も戻ってきました。家族を越え、地域を越え、国籍を越え、そして宗教を越えて声を掛け合うことが難しくなってきました。つまり普段に少しずつ戻ってきたのです》

暫くたつと、なぜ信者を優先しないのかという人もいた。教会に所属している意味がないとまで言う。「いつまで教会の中にボランティアがいるのか」と訝る人も中には出てきた。今、現実に何が起こっているのか、何が問題なのかということを被災地に居ながらも共有できない人たちがいた。
少し余裕が出てくると隣のことも気になりだした。被害の優劣の差が気になりだした。自分だけが惨めだと思い始めたりもする。僻みや嫉妬に押しつぶされそうになった。

《私たちすべての願いは地震から早<立ち直り、まちが復興することです。しかし今、復興という言葉にだんだんと取り残されてゆ<人々がいます。私たちは決してそんな仲間たちのことを忘れてはなリません。最後のー人が震災から立ち直るまで地震は終わらないからです》

三年が過ぎ去ってしまった今、街の玄関はもうほとんど地震の傷痕は残っていない。しかし、居間はまだまだだ。元居たところへ戻りたいという夢はなかなか叶わない。もしかしたらこのまま一生を終えてしまうのだろうかという不安がよぎる。仮設住宅では次の目処がたった人とまだたたない人との間で壁が出来始めた。災害復興住宅に当たらない人は悔しくて、当たった人は申し訳なくて、互いに話も出来なくなってしまった。地域型仮設で共同生活をしてきた一人暮らしの老人たちも事情が複雑だ。当たらない人よりも当たった人のほうが不安でいっぱいだ。心配で心配で夜も眠れず、しまいには入院してしまう。また孤独な一人暮らしが始まるからだ。一人一人の体と心を傷つけてしまった地震はなかなか終わらない。

《私たちは宗教者として、今一度この3年を振り返り心を合わせたいと思います。自分が責任を持つ教団の利益や信徒への奉仕にのみ留まってはいなかったか、そして世に開かれた宗教の働きを、自らの生き方として担い得たかを、問い直すことから始めなければなりません。そこからひとりひとりが壁を取り払い、優しく声をかけ合い、わかち合えるひとづくり、まちづくりを目指してその働き(教化や布教、宣教)を担ってゆかねばならないと、こころざします。さらにまちが復興し、単に普段に戻ることを願うのではなく、地震の中で体験した不思議な出来事に希望をおき、新しい世を創ってゆくことを願いそしていのります。それが宗教者としての共通の使命と考え、そのことが犠牲になちれた方々への追悼となり残された人々の新生となると固く信じるからです》

人の生きる道や人生を説く宗教教団は何をして来たのだろう。組織力を使って物を集めた。それを業績として自らを称える。ただそれだけだ。やっていることは企業となにも変わりはしない。それを配りながら、今こそ宗教は大切とばかりに宣伝や勧誘も繰り返した。「我が身を捨てて隣人を愛する」ことの出来た教団はキリスト教を含めてここには存在しなかった。いくら宗教といえども、組織は一人一人の人間に勝つことは出来ないと思った。被災者をこれまで支えてきたのは宗教や行政の組織ではなく、一人一人の隣に居る一人一人の人間だった。個々の出会いにはエネルギーがありそして夢が育って行く。組織はそれを応援するだけでいい。ところが邪魔をする。一人一人の人間を導くのが宗教教団だという幻想を持っているからそうなるのだろう。被災地で一人一人が持った優しさは宗教教団の改心(回心)へとつながるのだろうか。それがなければ新しい世は創られて行きはしない。

《市民の皆さん、宗教を持つことは、一人一人の生き方が分けへだてられるのではなく、宗教の壁を越えて、つながり合いわかち合うことなのです。自由な選択の中で人がよりよく生きる道を探す希望の宝箱を持つことなのです。また宗教者は、そのことを教えるだけの教師ではなく、共に考え共に歩む人生の仲問です。もし宗教を持つことがー人一人の心を狭くしたり、他を排斥したり、権力や名誉に走るようなものであるならば、残念なことです。もしそうなら、それはそれぞれの宗教に携わっている私たち宗教者が、宗教による壁の中で、それぞれのしきたり等に心を奪われているところに問題があるようです。それを本来の宗教として私たちは理解したくありません。私たち宗教者も完全ではありません。被災地にあって復興を創ろうとするすべての人々と共に、震災を生きる者として、私たちも一つになりたいと願います。地震に負けないで、勇気を持って新しい世を一緒につくってゆきませんか》

宗教にプライドを持ちたいと思う。宗教教団という組織に関わる私たち一人一人が、宗教を持たないで社会の悪とたたかっている人々に遅れを取らないようにしっかりと信仰を生きたいですね。

 

教団や教派を越えて出会った仲間は不思議だ。相手を知り、理解し、親しくなって行けば行くほど、自分が拘って信仰している宗教を自分の中でもっと大切にしようと思ってしまう。関われば関わる程それぞれが、もっと立派な宮司さんに、もっと素適なお坊さんに、もっと魅力のある牧師さんに、そしてもっと逞しい神父さんになってゆきそうだ。

神田裕
「声」誌 (1998/04)

1996年11月16日 (土)

だちづくり

みなさん、こんにちは。私は今、神戸市長田区にある鷹取教会にいます。去年の1月17日に大震災で潰れて燃えてしまった教会です。教会の建物は無くなってしまいましたが、はじめて教会になったように思いました。なぜ、そう思ったのでしょうか。

それは、教会にたくさんの人たちが毎日出入りするようになったからです。町の人たちやボランティアの人たちです。もちろん、教会の人たちもです。今まではそうではありませんでした。広い教会の敷地の中に普段人はいません。日曜日に信徒の人たちだけが利用するだけでした。なんともったいない事でしょう。出会いの場所を探している人たちはいっぱいいるというのに。

さて、集まった人たちの目的は何でしょうか。それは‘まちづくり’です。じゃ、どんな‘まちづくり’をしようとしているのでしょうか。それは、一言でいうと‘ともだちづくり’です。

‘まち’にはいろんな人たちが住んでいます。でも普段はあまり出会いがありません。ここの教会がある‘まち’にはお年寄がたくさんいます。外国人もたくさんいます。そして、障害を持った人たちもいます。でも、普段は‘まち’の中であまり出会うことがありません。出会いがなければ、‘ともだち’にもなれません。‘ともだち’になれなかったら、‘まちづくり’なんてできません。

教会が「まちづくり」の為の出会いの場となる。‘まち’の中で忘れ去られてしまっている人たちと出会っていく。信徒でなくても同じ目的を持つ人たちも集まる所。それが本来の教会ではないでしょうか。

それを教会で使っている言葉でいうと、福音宣教であり、神の国の建設です。教会に日曜日ミサに来る信徒の人たちにとって教会は信仰の道しるべです。それぞれの家庭や個人が、自分が住んでいる所で‘ともだちづくり’をとおして‘まちづくり’に働きかける中で、信仰を持つ喜びが生まれるのではないでしょうか。

神田裕
テレフォン・サービス (1996/11/16)

1994年11月 1日 (火)

生き返らない猫

ひとつの絵本を紹介しよう。

「 100万年も_しなない_ねこが_いました。_100万回も_しんで、_100万回も_生きたのです」という書き出しで始まる。あるときは王様の、あるときは船乗りの、あるときはサーカスの手品使いの、あるときは泥棒の、あるときは独りぼっちのお婆さんの、あるときは小さな女の子の、猫だった。「ねこは_しぬのなんか_へいきだったのです」。

あるとき猫は誰の猫でもなく、はじめて自分の猫になった。多くの雌猫がプロポーズするが、見向きもしない。「ねこは、_だれよりも_自分が_すきだったのです」。

あるとき猫に見向きもしない白い美しい雌猫がいた。気を引こうとするがダメ。とうとう猫は言った。「『そばに_いても_いいかい』」。

子猫がたくさん生まれ、大きく育って巣立ち、年老いた二匹はとても満足。「ねこは、_白い_ねこと_いっしょに、_いつまでも_生きていたいと_思いました」。

ある日、白い猫は死んだ。猫は初めて泣いた。泣いて泣いて泣き止んで、猫は白い猫の隣で静かに動かなくなった。「ねこは_もう、_けっして_生きかえりませんでした」。

* 参照 「100万回生きたねこ」 佐野洋子(講談社)

 

             ☆  ☆  ☆

 

何で生きているんだろう、何で死ぬんだろうなんてことはよく考える。生きているから死ぬんで、死ぬとは生きている証拠。死ぬことがないとは生きていないこと。分かったようで分かっていないことをとやかく考える。死の奥義なんて難しいことはよく分からないが、ただ一つだけ何となく思う。生きて充分に「隣猫(人)を愛する」ことができれば、今の世に執着することもなく、永遠の生命に入れることを。

神田裕
声誌巻頭言 (1994/11)

1992年5月 1日 (金)

お母さんの心

みずみずしい若葉がいっぱいのこの五月はなぜか聖母マリアの月とされています。理由はともかく母の日を迎えることでもあるし、お母さんのことをちょっと考えてみましょう。

赤ちゃんの誕生を迎えた家族は幸せいっぱい、希望に満ち満ちている。お母さんは思う。「りっぱに成長しますように」・・・・ところがそれは苦難の始まりでもあります。

夜泣きがあまりにひどいので、薄壁一枚の隣から文句を言われ、自分も泣きべそをかいてしまう若いお母さん。

喧嘩して怪我をさせてしまった子どもの家へ、ただただ誤りに行くお母さん。お前のしつけがなってないからだと、なぜかお父さんに叱られるお母さん。

お宅の子供さんは絵が上手ですが、この象の色がピンクなので良くないんですと学校の先生に言われ、この子はピンクが好きだからいいんですと頑張るお母さん。

女の子の部屋を覗いたからと学校に呼び出されたとき、息子が男の子であることが証明されましたと、豪快にも言い放ったお母さん。

中学でいじめられて学校へ行かなくなり、高校へ行ってもいじめられて学校をやめ、仕事をしだしてまたいじめられ、この一年程家に閉じこもりっぱなしの息子をかかえ苦しんでいるお母さん。

でも、そんなに苦労して育てた子どももみんないつかは離れ、一人で人生を歩み始める。お母さん。それは嬉しいことですか。悲しいことですか。

イエスの母マリアも、形は違うにしろ、子を思う気持ちは同じだったでしょう。自分の手元から離れて行動する子どものことが心配で仕方なかったでしょう。でも、その子の成長をじっと見守り、すべて心に納めていました。そして最後まで子供と共に生きました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と祈りながら。

神田裕
声誌巻頭言 (1992/05)

1990年9月 1日 (土)

ムダな時間よ、永遠に!

夏から秋へ季節がうつってゆく。思えば今年の夏は暑かった。各地で記録を更新していった。夜寝る時もクーラーのスイッチをなかなか切ることのできない日が続いた。こんな暑い日にどうして仕事なんかせなあかんねんとブツブツ文句を言ってたのは、わたしだけだっただろうか。そういうことを考えていると夏はあまり歓迎されない季節かもしれない。でも、子供たちにとってはそうではないようだ。

今年も教会のキャンプがあった。海だ。よい天気に恵まれた。キャンプは暑ければ暑い方がいい。ひろ~い海の中でおもいっきり遊んでいる真っ黒な子どもたち。勉強のことなんかすっかり忘れている。そして、子どもたちを見守っている真っ赤なリーダーたち。体はヒリヒリするけれど、元気な子供たちを見ててとても満足だ。子どももリーダーもまた一つ大きくなったことだろう。夏は草木だけでなく人間ものばしてくれる。

そんな夏をムダにしている人がいる。いや、立場を変えると、そんな夏がムダなのだ。たくさんの時間がまとめてとれる夏にこそ、集中して勉強しなければならないのだ。たった2、3日のキャンプもムダという。一日勉強の手を休めると一週間は何も手につかないからだという。現実社会のことをよく知っている(?)親たちが愛情を持って(?)子どもたちに今の社会の厳しさを教えようとする。でも、いったい何の社会の厳しさなのか。

世の中、益々合理的になっている。時間を節約し、有効に利用する。それはとてもいいことだ。しかし、「ムダな時間」を少しでも多く取るためのものであるかぎりにおいてである。「ムダな時間」がなくなれば、人に出会うことも、ましてや神さまに出会うこともなくなってしまうのではないかしら。

神田裕
玉造教会シャローム(1990/09)

1988年9月 1日 (木)

百円おばあちゃん

おばあちゃん

おばあちゃんが死んだ。夏の暑い盛りの日に、太陽に吸い込まれるように死んでいった。おばあちゃんのことを幼い頃“百円おばあちゃん”と呼んでいた。家に泊まりに来る度に百円をお小遣いにくれたからだ。百円はいつまでたっても百円だった。それでもとても嬉しかった。おばあちゃんが家に泊まった時は、寝る前に必ずお話を聞かせてくれた。それは、子供が春をさがしに行く話だった。色んな虫たちの家に行って尋ねるのだが一向に分からない。諦めて家に帰るとおばあちゃんが暖かいミルクを用意して待っている。子どもはそこで、実はおばあちゃんが春なんだとわかるという話だった。いい話しだった。ところがいつまでたっても、何回聞いてもその話ししかしなかった。それでもとても嬉しかった。おばあちゃんは僕が神学生の時によく手紙をくれた。白い封筒に白い便箋、震えた字で数行書いてある。内容は何回来ても同じ内容だった。それでもとても嬉しかった。おばあちゃんは神さまが好きだった。だから僕に希望を与えてくれた。生きて希望を与えてくれた人は、死んでも希望を与えてくれる。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)とイエズスさまはそう言われた。おばあちゃんは生きている。

「光線」 カトリック時報(1988/9/1号)