新聞雑誌などなど

2007年6月10日 (日)

地域のみなさま

<参照.>http://nodakita-furusato.net/kawaraban/0074.pdf

カトリックたかとり教会は5月26日にようやく竣工式を迎えることができました。これまで長きに渡ってご近所の皆様に色々とご迷惑をおかけしてきましたことをお詫びします。またそれと同時にこれまで見守っていてくださったことに心から感謝いたします。
この教会は1927年に現在の海運町3丁目にフランス人の宣教師によって建てられ今年でちょうど80周年を迎えました。1950年には教会内に幼稚園ができ地域の皆様と共に歩むことが出来ていましたが、1980年代の半ばに廃園となってからは地域との関わりもほとんど出来なくなってきていました。1995年1月17日の阪神淡路大震災で一部の建物を残し全壊全焼となりました。早期の教会の再建を望む声もありましたが、「まちが復興するまでは教会は建てない」との方針の下、被災地の救援基地として、またまちづくりの拠点として全国から何万人もの多くの人たちの応援の中でこれまで歩んでくることができました。その間、長田のまちづくりのためのコミュニティFM放送局「エフエムわぃわぃ」も立ち上がり、現在10カ国語で放送されています。
1999年9月21日には台湾中部で大地震がありました。それ以来、この野田北地域は台湾の被災地の人たちとの交流を深めてきました。神戸の震災直後にたかとり教会内に建てられたまちづくりのための集会所「ペーパードーム」は地域のみなさんの協力の中、交流のシンボルとして移設されることなり、今年の9月21日に台湾現地で竣工予定です。
新しいたかとり教会の建築は、そのペーパードームを考え出した同じ建築家によって建てられました。斬新な形の建物は、実は教会の人たちも驚いています。「ここに新しいショッピングモールができるのですか?」と尋ねられるぐらいです。外見は従来の教会の姿ではなく大きな倉庫が出来たのかと思われますが、中に入ると芝生の中庭を中心に建物全体が広がりを見せ、その空間は人の心を和ませます。
今回の教会建築のテーマは「閉じられていて開かれている」でした。騒音などでご近所に迷惑をかけないように閉じられていなければならない、それと同時に地域の人たちがまちづくりのための交流のスペースとして活用してもらえるように開かれていなければならない。その相反するテーマを形にすればこのようなものになってしまいました。
たかとり教会はもちろん宗教施設です。ただこの広い敷地を数少ない信者のためだけに活用するのはもったいない話です。教会とは本来は「会員制クラブ」ではなくて、地域にあってまちづくりやひとづくりに貢献できる「大衆食堂」のようであるのが教会の本来の姿だと思っています。
これからも豊かな地域社会が育まれますようにこの教会もいろんな形で協力してゆきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

カトリックたかとり教会
神田裕

わがまち野田北かわらばん74号原稿 (2007/06/10)

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2006年5月 1日 (月)

ブルーシート

大地震があった。まちが潰れて燃えた。すべてなくなった。

次の日から数え切れぬほどのボランティアの人たちが来てくれた。若い人たちが多かった。救援基地が立ち上がった。寝泊りしながら活動を続けてくれた。がむしゃらにがんばった。2,3ヶ月たったころ悩み始めた。「僕ら遠いところからやってきた。力仕事を手伝った。でもほんとに役に立っているんだろうか?」。

ある日、避難所に行かず崩れかけの家でがんばっているおじいちゃんから連絡が入った。雨漏りするから直してくれと。何人かが駆けつけた。彼らは戻ってきてから言った。「もうおじいちゃんのところには行かない!」と。あれこれとうるさかったらしい。また雨漏りがすると連絡が入った。仕方がないのでまた行った。作業が終わればまた行きたくないと言った。作業をしているとおじいちゃんは屋根まで上ってきてあれこれとまたうるさく言うらしい。屋根に上れるんだったら自分でしろと彼らは思った。それでも何度も連絡してきた。嫌々ながらそのたびに彼らは行った。。。聞いてみれば、おじいちゃんの家に行くといつも、まず部屋でジュースを出してくれるそうだ。しばらく話してから作業が始まる。

ある晩、彼らの中の一人が言った。「僕たち若いし力があるから、こうやって破れた屋根にブルーシートを張ってきた。でも僕らがここに来た意味は違うんじゃないか。ほんとうは屋根じゃなくて、おじいちゃんの破れた心にブルーシートを張りに来ているんじゃないか」。

この時から、彼らはまた元気を取り戻して救援活動を続けて行ってくれた。

神田裕
こどものせかい・にじのひろば 5月号原稿(2006/05)

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2006年4月16日 (日)

そばにいる

今年2006年の暦はちょうど11年前の1995年の暦と同じだ。毎日毎日があの時と重なってよみがえってくる。

3月1日は灰の水曜日。四旬節が始まった。当時はたかとりの敷地内ではまだ瓦礫がそのままになっておりまったくの野外で式を行った。「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」。このことばとともに、みなはひとりひとり頭や額に灰を受けた。重たいちりだった。辺り一面はすべてがちりになっていたからだ。説教は必要なかった。そのままの典礼のことばがそのまま心にしみた。

四旬節の間に鵯越の墓地に何度か行った。ある時そこに桜の木の大きな枝が2つ落ちていた。これはいい。教会に持って帰り、小枝を切り落とし、2本を重ねて、大きな十字架が出来上がった。4月14日の聖金曜日の典礼のためにちょうどその十字架は役に立った。鵯越の墓に眠る人たちの元にあった木の十字架で彼らと共に主の受難の日をむかえた。

4月16日主の復活の日。名実ともに震災後初めての節目を迎えた。3ヶ月近く続いたたかとり教会内の臨時診療所は一応の役割を終え終了した。震災直後から全国の医師や看護師のみなさんがボランティアで被災者の治療や手当てにいつも私たちのそばにいて活躍してくれた。その活動はその後「まちの保健室」と名前を変え、避難所や仮設住宅への支援活動として続けられ、今は高齢者・障害者支援のNPOリーフグリーンへと引き継がれている。また同じその日、コミュニティFM放送局「エフエムわぃわぃ」の前身であるミニFM放送局「FMユーメン」が敷地内で開局した。現在は8言語で神戸に電波を発信し、インターネットでは世界に向けて多文化豊かなまちづくりのメッセージを発信し続けている。今日が明日へとつながってきた。

今年も3月1日から四旬節が始まった。兵庫とたかとりは灰の水曜日と聖週間は合同で行った。いつもより豊かに感じた。しかしそれは人数がいつもより倍以上いたからではない。本当はいつも時を同じくして別の場所で典礼に参加している数は同じなはず。ただ実感として今、目の前にいるかいないかの違いだけなのだ。想像ではなくて、今目の前にいることだけでこんなにも豊かさや喜びが違うものなのだ。「愛しているよ」って遠くで言葉で100万回言われるよりも、黙ってそばにいてくれるだけでも、それの方が嬉しいものなのだ。それだけで明日を見ることが出来るものなのだ。

そして今、喜びを持って復活の日を迎えた。何で喜びなんだろう。何が喜びなんだろう。それは、想像ではなく、実感として今、そばにいらっしゃるから嬉しいんだ。そしてそれだけで明日を生きることができるんだ。

ところで、、、私たち、、、ほんまに実感してるのかなぁ?

神田裕
パンダネ(兵庫教会報)2006/04

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2005年1月17日 (月)

たかとり10周年誌まえがき

<はじめに>

ちょうど寝入りばなだった。ベッドの上で体が揺れ動くのを感じた。するとすぐ建物が軋む音が聞こえ、部屋ごと飛ばされるのではないかと思うほどの大きな揺れが始まった。「あかん」とひとこと声に出したのを覚えている。布団を頭からかぶり揺れが収まるのを待った。長かった。怖かった。ベッドから這い出そうとするが真っ暗であらゆるものが床に飛び散り足を置く場もなかった。何とか部屋の戸口まで進んで行き力いっぱい扉をこじ開けた。2階の窓から外を見たが真っ暗闇で何も見えなかった。ただ遠くで火の手が3箇所あがっているのが見えた。

夢を見ているのだと思った。
夢であってほしかった。
ほっぺたをつねったら痛かった。

階段を下りようとしたが土壁の残骸で埋まり滑り台のようになっていた。庭に出た。教会にいた8人は無事だった。空が白んできた。聖堂がぺちゃんこに潰れていた。周辺の家々も2階が1階になって傾いていた。大変なことになってしまったんだとやっと正気に戻ってきた。足元を見たら一部地面が陥没し始めていた。部屋から畳をはがし庭に敷き詰めた。門の外には裸足でパジャマ姿のまま布団を頭からかぶった人たちが歩き始めていた。頭から血を流している赤ちゃんを抱えているお母さんもいた。庭の畳の上で休むように呼びかけた。20人ほど集まった。目をつぶってもう一度2階の自分の部屋に戻り靴下を全部取り出した。しばらくすると火の手が迫ってきた。集まった人たちは避難場へとまた歩き始めた。もう一度建物の中に入り大事なものを鞄に詰めた。教会が燃え盛る中、ようやく消防用のホースがたどり着いた。消防士さんがノズルを持って火を消しに掛かるのだがほとんど水が出ない。よく見るとホースの途中が破れて噴水のようになっていた。噴水の出口を肩に抱えて別のところを消した。鎮火すると後は煙だった。夜にはやっと中学校の庭に避難した。

一日目のすべては教会の壁の中のことだった。しばらくたってから知ったことがあった。地域の人たちは病院の寝たきりの人やつぶれた家に埋まっている人を救出していた。穴があったら入りたかった。

二日目の朝教会に戻ってきた。多くのボランティアの人たちの支えによってこの10年の歩みは始まった。被災者の多くもボランティアだった。救援基地は壁に囲まれていたが、救援活動は壁を越えた。地域とNGOと教会がひとつになってまちづくりひとづくりの小さな芽がつき始めた。

夢を見ているのだと思った。
ほっぺたをつねったら痛かった。
この夢はこれからもずっと見続けてゆきたい。

<おわりに>

10年間これまで共にいて下さってほんとうにありがとうございました。みなさまの優しさが私たちの大きなエネルギー源であったことは言うまでもありません。震災で始まった「たかとりから世界へ」を大切に育ててゆくことでお世話になったみなさまのお返しとしたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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2002年4月 1日 (月)

オレたち教会人間 ?

生まれ出るなり教会とのかかわりが始まりました。そうなんです。私は幼児洗礼なんです。幼稚園の頃からラテン語を意味もわからず覚えさせられ侍者をし、小学生時代は日曜学校に夏季キャンプ。そして中学生会、高校生会、青年会。日曜日は必ずミサに行きフォークミサではギターを弾き、毎朝ミサに通っていた時代もありました。その頃の写真を実家で見ればなんと教会関係の写真が多いことか。おまけに大学卒業後に神学校まで行きました。そうなんです。私は教会人間なんです。それはそれは教会の中で豊かに育ったのでした。

しかし・・・。気が付けば世の中のことを何も知らない無知な人間に育っていました。日曜日にはクラブ活動に出られず、地域の祭りで太鼓をたたけば叱られたりと、あたかも教会は善でそれ以外は悪であるかのような育てられ方をしました。社会の仕事ではなく教会の仕事をすれば天国へ行けると言われていました。そうなんです。世の中のことは知らない方がよかったのです。悪に染まらないためです。しかし感じていました。教会の中にこそ醜い人間関係の争いがあるってことを。そしてそれをじっと我慢して耐え犠牲をささげることが最大の美とされていました・・・。

でもこれらはみな懐かしい私の思い出話です。

私たち信仰を持つ一人一人は教会という人格の構成メンバーですね。教会という人格は「隣人を愛する」という使命を実現してゆくのですね。構成メンバーが教会という組織に自分自身のサービスを求めるのではなくて、教会という人格の一部として隣人に向けてサービスをしてゆくのですね。「二人三人集まる所に私はいる」と神様も仰っているのだからなんと力強いことでしょう。おまけにこれからは小教区の枠を越えてブロックとなると仲間も増える。今まで以上に勇気も湧く。社会活動委員会なんてものができましたけど、それは教会そのもののことだったんですね。そう思ったとき私は救われました。

これならこれからも教会人間で生きたいです。教会に関われば関わるほど世の中のことが分かってくるのですから。そして福音宣教をする喜びが持てるのですから。

神田裕
神戸中ブロック (2002/04)

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楽しい食卓を囲みませんか?

大阪教区のみなさま、こんにちは。シナピスがスタートしました。これからよろしくお願いします。すでにお伝えしていますように、シナピス教区センターはこれまでの正義と平和協議会、カリタス大阪、国際協力委員会、平和の手が一つになったセンターです。別の言い方をすると家族になったと言えば良いのかも知れません。

家族の中にはお父さんとお母さん、そして息子と娘が一緒に住んでいます。それぞれがそれぞれの場で活躍しています。

お父さんは毎日仕事で会社に出かけます。会社は商品を売るためにあらゆる手段を使って取り組みます。しかし会社という大きな組織の中で仲間たちの一人の人間としての存在が脅かされていることに気が付きました。いくら利益のためとはいえ納得できません。日常の業務をこなしながらもどうやったらいいかを知恵を出して考えます。そのためには世の中の動きも鋭く察知しなければなりません。法律や社会の規則などもよく勉強して何が正義で何が間違っていることなのかを見分けなければなりません。他にも同じ事を思っている人たちがいました。彼らとも力を合わせて一緒に考えたりもします。アフターファイブのお付き合いも大切なことだと考え忙しい毎日を送っています。

お母さんは少し内職などもこなしながら、ご近所のおばさんたちと子育ての立ち話。また一緒に地域活動にも励んでいます。地域に住む老人たちの世話や障害を持っている人たちとの関わりを通して何か生きがいを見つけようとしてきました。子どもの学校のバザーのお手伝いをしたり、時間を見つけて習い事なんかもやっています。

息子は高校へ通っています。毎日勉強してクラブ活動もしています。彼は自分の通っている学校に外国人の仲間が多いことは知っていました。最初は特に気にも留めなかったのですが、ある時一緒にクラブ活動をしている外国人の友人から悩みの相談を受けました。生活が大変だったのです。考えても見なかったことでした。それ以来彼はその友人のそばにいようと思いました。

娘は大学へ通っています。大学のゼミで世界の情勢を少しずつ勉強することができました。そしてゼミの先生と一緒に具体的にプロジェクトを立てて取り組みをすることになりました。日本の国以外でのことに目を向けるいいチャンスを貰っています。

このようにそれぞれがそれぞれの場で問題を感じ、信仰の目を通してどうしたら良いかを仲間たちと一緒に考えてきました。しかし足りなかったことがありました。それはそれぞれがあまりにも忙しくて家族で一緒に話しをする時間がなかったことでした。お互いがしていることも知らないでいました。時には家族の無理解に愕然とすることもありました。そしてこのことが大きな問題だと気がつきました。

家族会議を何回も開いてきました。家族とは何かを話し合ってきました。そしてようやく家族としてそれぞれが関わっていることを共有してゆく必要性を理解しました。すでに蒔かれていたシナピス(からし種)を一緒に育ててゆく約束をしました。簡単に言えば、一緒に夕食のテーブルを囲み楽しく語らう時間を大切にしようということでした。

そしてこの度、「新しいぶどう酒を新しい皮袋に」入れることにしました。大阪教区家族のみなさん、一緒に新しいぶどう酒を飲みながら楽しい食卓を囲みませんか!

2002/04
シナピス教区センター
神田裕

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2002年1月18日 (金)

ネパールで見たものは・・・

阪神淡路大震災からこの1月17日で丸7年を迎えました。町の見栄えは大分よくなりましたが、決してすべて復興したわけではありません。ちょっと奥へ入ればまだまだ色んな形で傷跡が残っています。私が所属する鷹取教会もまだまだ仮設のままで、聖堂もペーパードームと呼ばれるテントのままです。町が復興するまで教会は建てないと歩んできたからです。

地震が起こって半年ほどしたときに、「いつまで教会は騒々しいんだ。早く聖堂を建てよう。静かに祈る場所がほしいから」と言う人がいて困ったのですが、私はすかさず「静かに祈りたければあの山の上で祈ればいい」などと言ってしまいました。

そう言ったからと言うわけではありませんが、震災後、月に一度ミサが終わった後、何人かで六甲山を登り始めました。なぜ山に上るのかは自分でもわかりませんが、下界では見えないものが見えるかもしれないと思ったからかもしれません。

山登りのメンバーは近所の人やNGOのメンバーも加わったりしました。時々山に登ることで、ともすれば震災後の非日常生活の中で忘れてしまいそうになるものを取り戻すことができたものでした。

六甲山を自己回復?の場にしてきた私たちはこともあろうになんとネパールの山を登ろうということになりました。世界最高峰のエベレストを見に行こうということになったのです。少しでも高い山に登れば神にでも近づけると思ったのでしょうか。とんでもないことですがこれも出会いがあってのことでした。

去年の11月に実現しました。ルクラという町からナムチェと言う町までひたすら歩き、とうとうエベレストをこの目で見ることができました。静かな心で【神を思う】ことができたように感じました。

感動に浸りながらそのあと首都カトマンズへ戻ってきました。山の静けさとは打って変わってここは人々がごった返す騒音と誇りの街でした。ヒンズー教や仏教の寺院が街の至る所にありました。偶然にもガイドのヒンズー教の青年がカトリックの修道院を案内してくれました。彼が修道女達の活動に共感して自分の土地を提供しているところでした。あのマザーテレサの修道会です。孤児院をしていました。貧しくて騒々しい街カトマンズ。静かに【神を思う】ことはできませんでしたが、人々の生きる姿や目を見てメンバーはひとりひとり【神を見た】ように感じました。山登りの目的でネパール入りした私たちは思いもかけずカトマンズの街で元気をもらって帰ってきました。

神戸に帰ってきました。教会がこの街でやらなければならないことはまだまだたくさんあります。教会の中に【神を思う】山を作る必要はないでしょう。疲れたら六甲山に登ればいい。今年はこの街で【神に出会う】ことができるでしょうか。

震災8年目がスタートしました。

神田裕
カリタス・ジャパン1月号巻頭言(2002/01)

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2002年1月13日 (日)

台湾地震支援

去年の11月に台湾へ行ってきました。カリタス大阪で集められた台湾地震の支援金を現地で有効に使ってもらうためです。

経緯はこうです。1999年9月21日に台湾で大地震がありました。同じように地震の被害を受けた神戸のNGOもいくつかプロジェクトを組んで支援活動を展開しました。たかとり救援基地にあるFMYYも台湾地震の多言語情報をインターネットを通じて流しました。一昨年の12月に、現地で活動をしている台湾の支援チームが神戸に視察にきました。鷹取にも来られ交流を持つことが出来ました。そのことがきっかけでカリタス大阪が集めた支援金をそのチームの活動に当ててもらうことになりました。

そのチームはNGO的な活動をしていますが、バックボーンは台湾基督長老教会というプロテスタントの教団でした。この台湾基督長老教会は台湾では最大のキリスト教会で全国に人口(約2,300万人)の3%の信者数を抱えており、教会の数も1、230ほどあります。そして今回、震災後の神戸での動きも紹介しながら活動の交流をはかるということになったのです。

「台湾基督長老教会921地域復興ケア事業」と名をうって活動を続けています。4年の計画で支援活動を展開していくようです。現在被災地に17個所の地域復興ケアセンターがあります。正式なスタッフは60名。政府から11ヶ月分の人件費が出て臨時のスタッフが40名。ほとんどは若い人たちで比較的女性が多いです。被害が大きかったのは台湾の中ほどの南投県(台中)というところです。カリタス大阪からの援助金はその中の集集(Chichi)というところのケアセンターの事業に当てられています。被災者達の生活支援を展開しています。

初日は台湾基督長老教会の幹部の人たち(牧師&長老)とケアーセンターで働く人たちとの座談会でした。午前中は私が阪神大震災での神戸での話をし、午後は幹部の人たちと実際に働いている人たちとの話し合いがありました。教会という組織と現場とのズレがやはりあるようで活発な意見が交わされていました。教会という枠を越えて地域と関わることの是非が問われていました。

被災地では他に9つのグループが今も活動を展開しているそうです。ここはそのひとつ。ここが建てた120世帯分の仮設住宅は今もそのままだそうです。神戸のような都市型の被害とは少し様子が違います。もともと貧しい村が被害に遭いました。生活の再建そのものが大きな課題です。

話は変わりますが、台湾を車で走っていると2畳ほどのガラス張りのスペースにキラキラとネオンが光り中に若い女の人がいる小屋があちこちで見かけます。台中ではほとんど100mおきぐらいにありました。何をしているかというとビンロウというものを売っているのです。それは木の実です。これを噛みつづけると覚醒作用があるそうで長距離運転手たちがよく購入するそうです。元々は原住民の人たちの嗜好品だったようです。

私も一つ食べてみました。どんぐりの少し大き目の実に何か白いものを中につけて売っています。それを口に入れガムのように噛みつづけます。汁が出てくればそれを吐き出します。苦い感じでしたが何回かしていると止めれなくなるそうです。ちょっとした麻薬のようなものでしょうか?

このビンロウという木の実が多く取れるのが南投県の辺りです。二日目に行った中寮郷という所にもその木(ココナツの木の様)がたくさんありました。そしてそれを加工するためにたくさんの女性やお年寄り達がいたるところで働いていました。被災地の人たちの重要な収入源のようです。

しかしこれは体に良くはありません。それと、もともとの森林を伐採してこの木を植えることによって度々台風の被害がよくあるこの辺りで水はけが悪くなり被害が増大しているという問題もあります。台湾としては頭の痛い問題の一つのようです。

災害支援という関わりから多くの出会いが生まれました。そして隣の国台湾の素顔をも垣間見ることもできました。被害にあった人々への、みなさまのあたたかい心は、形をなし、今台湾で実際に活動されている人たちのもとへと飛んでいきました。しかしこれは終わりではなく始まりであることをも実感しました。

神田裕
カリタス大阪報告原稿(2002/01)

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2000年12月 1日 (金)

何を待ちますか?

何週間から前から教会の敷地内の東屋にごみやタバコの吸殻がやたら散らかっているのが気になっていました。しばらく様子を見ているとそのワケがわかりました。夜な夜な近所の高校生らしき若者達がこっそりひっそりと教会の中でたむろしてたのです。

かなんなぁ。難儀やなぁ。気安く教会を出入りしてくれるのはいいがタバコを吸ってたむろされてはたまらない。注意して追い出そうか。どうしようか。相手は茶ぱつや金髪にピアス。おまけに体もデカイ。勇気がいる。

でも思い切って声をかけてみた。そしたら「おっちゃん誰や」と言われてナメられました。1回戦敗退。しばらく様子を見てまた「タバコは吸うな」と言ってみた。「はいはい」と言って簡単にカワされました。2回戦失敗。またしばらく様子を見て今度は昨晩に残していった彼らの散らかしたゴミやタバコの吸殻を集めて彼らの前に投げつけ「おまえらナメとんか」と思わず大きな声で怒鳴ってしまいました。どうしよう。カカッテクルかなぁ。・・・と思ったら、タバコを吸っていた彼らの手がピタッと止まった。「今日は出て行け。1週間立ち入り禁止や。1週間後にもう一回ここへ来い。そして話ししょ」と続けざまに言ってみた。私自身、本音を言うと「もう来んでもええ」と思っているのに、なぜか口から出てきた言葉は「1週間後にもう一度ここへ来い」だった。彼らは大人しく教会から出て行った。

それから1週間待ちました。「彼らちゃんと来るやろか」「もうけぇへんのとちゃうかな」とか何とか、気になって仕方がなかった。「来てくれるな」という思いはもうなくなり、彼らが来ることをいつの間にか待っていました。「何でこうなってしもたんやろ」とふと考えてみました。それは・・・彼らの目を見たからでした。たちの悪い不良たちの目はよくみると純粋な子供の目をしていました。

1週間後に彼らは来ました。とてもうれしかったです。待ったかいがありました。話をしました。教会でたむろしたかったらボランティア・クラブを作れといいました。そしたら彼らは「ヒマジン・クラブ」という名前を付けました。中身はこれからです。

21世紀の始まりに神戸は震災7年目を迎えます。これまで大人たちが乗り越えてきた「まちづくり」は彼らが引き継いでくれなあかんのです。祈るような気持ちです。

もうすぐクリスマス。キリストの誕生をひたすら待つ待降節。ところであなたは何を待ちますか?

神田裕
テレフォン・サービス (2000/12)

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2000年8月 1日 (火)

ジグソーパズル

みなさん、こんにちは。お元気ですか?広報委員会から原稿の依頼がありました。ハッとして気が付けばシャロームに投稿するのは9年半ぶりなんですね。ビックリ!みなさんと時と場所をともにしていたときからもう10年もたってしまったのですね。ここ鷹取での10年もいろんなことあったけど、玉造でのたった1年も色濃かったなぁ。実はこの10年よりもしんどい1年でした。

覚えています?一度説教の時に説教ができないと言った時のこと。もう大変。そういう説教だったのに後でえらい説教されました。ちょうど3年目だったんですね。そうそう、1年かけてみんなで作った大きなジグソーパズル。今でもあるのかな。聖書の勉強会が終わった後なんかにみんなで作りましたね。パズルのひとつひとつ、その時に何を悩んでいたか今でも覚えています。そして完成しました。嬉しかった。完成することによって3年目を乗り越えることができました。ひとりでは完成しなかったよ、きっと。完成しなかったら鷹取での10年もなかったよ、ほんと。

鷹取でも震災直後に玉造でのことを思い出してもう一度ジグソーパズル作りに加わることにしました。今度はもっと大きいまちづくりパズルです。今度はちょっと手強い。何せ完成図が入っていないのです。おまけにパズルのひとつひとつが時々勝手に形を変えてしまう。質の悪いことに他のパズルを弾き飛ばすパズルもいる。そしてもっと質が悪いことがある。それは自分もパズルの一つやということ。これはかなん。ひとごとで言うてられへん。悲しくて涙したこと...辛くて逃げたかったこと...悔しくてからだが震えたこと...嬉しくてこころが震えたこと...楽しくて生きててよかったと...などなど。ひとつひとつのパズルは生きとる。だからもっと楽しい。

そういえば最近、教会もジグソーパズルを始めましたね。今まで大昔に描かれた絵を鑑賞するだけやったけど、その絵も時代に合わずにバラバラになってきてた。絵を描きなおす必要はない。完成図は神さまの心の中にある。だから祈りながら神さまの完成図を参考にしながらみんなで力を合わせてこの時代にそして次の時代に生きれる絵に組み直すんやね。新生計画も集会祭儀も新しい時代に向けての挑戦ですね。

私にジグソーパズルの喜びと楽しさを教えてくれたのは玉造でしたよ。また一緒にジグソーパズルに挑戦しましょうよ。

神田裕
玉造教会シャローム8月号(2000/08)

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