新聞雑誌などなど

地域のみなさま

<参照.>http://nodakita-furusato.net/kawaraban/0074.pdf

カトリックたかとり教会は5月26日にようやく竣工式を迎えることができました。これまで長きに渡ってご近所の皆様に色々とご迷惑をおかけしてきましたことをお詫びします。またそれと同時にこれまで見守っていてくださったことに心から感謝いたします。
この教会は1927年に現在の海運町3丁目にフランス人の宣教師によって建てられ今年でちょうど80周年を迎えました。1950年には教会内に幼稚園ができ地域の皆様と共に歩むことが出来ていましたが、1980年代の半ばに廃園となってからは地域との関わりもほとんど出来なくなってきていました。1995年1月17日の阪神淡路大震災で一部の建物を残し全壊全焼となりました。早期の教会の再建を望む声もありましたが、「まちが復興するまでは教会は建てない」との方針の下、被災地の救援基地として、またまちづくりの拠点として全国から何万人もの多くの人たちの応援の中でこれまで歩んでくることができました。その間、長田のまちづくりのためのコミュニティFM放送局「エフエムわぃわぃ」も立ち上がり、現在10カ国語で放送されています。
1999年9月21日には台湾中部で大地震がありました。それ以来、この野田北地域は台湾の被災地の人たちとの交流を深めてきました。神戸の震災直後にたかとり教会内に建てられたまちづくりのための集会所「ペーパードーム」は地域のみなさんの協力の中、交流のシンボルとして移設されることなり、今年の9月21日に台湾現地で竣工予定です。
新しいたかとり教会の建築は、そのペーパードームを考え出した同じ建築家によって建てられました。斬新な形の建物は、実は教会の人たちも驚いています。「ここに新しいショッピングモールができるのですか?」と尋ねられるぐらいです。外見は従来の教会の姿ではなく大きな倉庫が出来たのかと思われますが、中に入ると芝生の中庭を中心に建物全体が広がりを見せ、その空間は人の心を和ませます。
今回の教会建築のテーマは「閉じられていて開かれている」でした。騒音などでご近所に迷惑をかけないように閉じられていなければならない、それと同時に地域の人たちがまちづくりのための交流のスペースとして活用してもらえるように開かれていなければならない。その相反するテーマを形にすればこのようなものになってしまいました。
たかとり教会はもちろん宗教施設です。ただこの広い敷地を数少ない信者のためだけに活用するのはもったいない話です。教会とは本来は「会員制クラブ」ではなくて、地域にあってまちづくりやひとづくりに貢献できる「大衆食堂」のようであるのが教会の本来の姿だと思っています。
これからも豊かな地域社会が育まれますようにこの教会もいろんな形で協力してゆきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

カトリックたかとり教会
神田裕

わがまち野田北かわらばん74号原稿 (2007/06/10)

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ブルーシート

大地震があった。まちが潰れて燃えた。すべてなくなった。

次の日から数え切れぬほどのボランティアの人たちが来てくれた。若い人たちが多かった。救援基地が立ち上がった。寝泊りしながら活動を続けてくれた。がむしゃらにがんばった。2,3ヶ月たったころ悩み始めた。「僕ら遠いところからやってきた。力仕事を手伝った。でもほんとに役に立っているんだろうか?」。

ある日、避難所に行かず崩れかけの家でがんばっているおじいちゃんから連絡が入った。雨漏りするから直してくれと。何人かが駆けつけた。彼らは戻ってきてから言った。「もうおじいちゃんのところには行かない!」と。あれこれとうるさかったらしい。また雨漏りがすると連絡が入った。仕方がないのでまた行った。作業が終わればまた行きたくないと言った。作業をしているとおじいちゃんは屋根まで上ってきてあれこれとまたうるさく言うらしい。屋根に上れるんだったら自分でしろと彼らは思った。それでも何度も連絡してきた。嫌々ながらそのたびに彼らは行った。。。聞いてみれば、おじいちゃんの家に行くといつも、まず部屋でジュースを出してくれるそうだ。しばらく話してから作業が始まる。

ある晩、彼らの中の一人が言った。「僕たち若いし力があるから、こうやって破れた屋根にブルーシートを張ってきた。でも僕らがここに来た意味は違うんじゃないか。ほんとうは屋根じゃなくて、おじいちゃんの破れた心にブルーシートを張りに来ているんじゃないか」。

この時から、彼らはまた元気を取り戻して救援活動を続けて行ってくれた。

神田裕
こどものせかい・にじのひろば 5月号原稿(2006/05)

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そばにいる

今年2006年の暦はちょうど11年前の1995年の暦と同じだ。毎日毎日があの時と重なってよみがえってくる。

3月1日は灰の水曜日。四旬節が始まった。当時はたかとりの敷地内ではまだ瓦礫がそのままになっておりまったくの野外で式を行った。「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」。このことばとともに、みなはひとりひとり頭や額に灰を受けた。重たいちりだった。辺り一面はすべてがちりになっていたからだ。説教は必要なかった。そのままの典礼のことばがそのまま心にしみた。

四旬節の間に鵯越の墓地に何度か行った。ある時そこに桜の木の大きな枝が2つ落ちていた。これはいい。教会に持って帰り、小枝を切り落とし、2本を重ねて、大きな十字架が出来上がった。4月14日の聖金曜日の典礼のためにちょうどその十字架は役に立った。鵯越の墓に眠る人たちの元にあった木の十字架で彼らと共に主の受難の日をむかえた。

4月16日主の復活の日。名実ともに震災後初めての節目を迎えた。3ヶ月近く続いたたかとり教会内の臨時診療所は一応の役割を終え終了した。震災直後から全国の医師や看護師のみなさんがボランティアで被災者の治療や手当てにいつも私たちのそばにいて活躍してくれた。その活動はその後「まちの保健室」と名前を変え、避難所や仮設住宅への支援活動として続けられ、今は高齢者・障害者支援のNPOリーフグリーンへと引き継がれている。また同じその日、コミュニティFM放送局「エフエムわぃわぃ」の前身であるミニFM放送局「FMユーメン」が敷地内で開局した。現在は8言語で神戸に電波を発信し、インターネットでは世界に向けて多文化豊かなまちづくりのメッセージを発信し続けている。今日が明日へとつながってきた。

今年も3月1日から四旬節が始まった。兵庫とたかとりは灰の水曜日と聖週間は合同で行った。いつもより豊かに感じた。しかしそれは人数がいつもより倍以上いたからではない。本当はいつも時を同じくして別の場所で典礼に参加している数は同じなはず。ただ実感として今、目の前にいるかいないかの違いだけなのだ。想像ではなくて、今目の前にいることだけでこんなにも豊かさや喜びが違うものなのだ。「愛しているよ」って遠くで言葉で100万回言われるよりも、黙ってそばにいてくれるだけでも、それの方が嬉しいものなのだ。それだけで明日を見ることが出来るものなのだ。

そして今、喜びを持って復活の日を迎えた。何で喜びなんだろう。何が喜びなんだろう。それは、想像ではなく、実感として今、そばにいらっしゃるから嬉しいんだ。そしてそれだけで明日を生きることができるんだ。

ところで、、、私たち、、、ほんまに実感してるのかなぁ?

神田裕
パンダネ(兵庫教会報)2006/04

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たかとり10周年誌まえがき

<はじめに>

ちょうど寝入りばなだった。ベッドの上で体が揺れ動くのを感じた。するとすぐ建物が軋む音が聞こえ、部屋ごと飛ばされるのではないかと思うほどの大きな揺れが始まった。「あかん」とひとこと声に出したのを覚えている。布団を頭からかぶり揺れが収まるのを待った。長かった。怖かった。ベッドから這い出そうとするが真っ暗であらゆるものが床に飛び散り足を置く場もなかった。何とか部屋の戸口まで進んで行き力いっぱい扉をこじ開けた。2階の窓から外を見たが真っ暗闇で何も見えなかった。ただ遠くで火の手が3箇所あがっているのが見えた。

夢を見ているのだと思った。
夢であってほしかった。
ほっぺたをつねったら痛かった。

階段を下りようとしたが土壁の残骸で埋まり滑り台のようになっていた。庭に出た。教会にいた8人は無事だった。空が白んできた。聖堂がぺちゃんこに潰れていた。周辺の家々も2階が1階になって傾いていた。大変なことになってしまったんだとやっと正気に戻ってきた。足元を見たら一部地面が陥没し始めていた。部屋から畳をはがし庭に敷き詰めた。門の外には裸足でパジャマ姿のまま布団を頭からかぶった人たちが歩き始めていた。頭から血を流している赤ちゃんを抱えているお母さんもいた。庭の畳の上で休むように呼びかけた。20人ほど集まった。目をつぶってもう一度2階の自分の部屋に戻り靴下を全部取り出した。しばらくすると火の手が迫ってきた。集まった人たちは避難場へとまた歩き始めた。もう一度建物の中に入り大事なものを鞄に詰めた。教会が燃え盛る中、ようやく消防用のホースがたどり着いた。消防士さんがノズルを持って火を消しに掛かるのだがほとんど水が出ない。よく見るとホースの途中が破れて噴水のようになっていた。噴水の出口を肩に抱えて別のところを消した。鎮火すると後は煙だった。夜にはやっと中学校の庭に避難した。

一日目のすべては教会の壁の中のことだった。しばらくたってから知ったことがあった。地域の人たちは病院の寝たきりの人やつぶれた家に埋まっている人を救出していた。穴があったら入りたかった。

二日目の朝教会に戻ってきた。多くのボランティアの人たちの支えによってこの10年の歩みは始まった。被災者の多くもボランティアだった。救援基地は壁に囲まれていたが、救援活動は壁を越えた。地域とNGOと教会がひとつになってまちづくりひとづくりの小さな芽がつき始めた。

夢を見ているのだと思った。
ほっぺたをつねったら痛かった。
この夢はこれからもずっと見続けてゆきたい。

<おわりに>

10年間これまで共にいて下さってほんとうにありがとうございました。みなさまの優しさが私たちの大きなエネルギー源であったことは言うまでもありません。震災で始まった「たかとりから世界へ」を大切に育ててゆくことでお世話になったみなさまのお返しとしたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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オレたち教会人間 ?

生まれ出るなり教会とのかかわりが始まりました。そうなんです。私は幼児洗礼なんです。幼稚園の頃からラテン語を意味もわからず覚えさせられ侍者をし、小学生時代は日曜学校に夏季キャンプ。そして中学生会、高校生会、青年会。日曜日は必ずミサに行きフォークミサではギターを弾き、毎朝ミサに通っていた時代もありました。その頃の写真を実家で見ればなんと教会関係の写真が多いことか。おまけに大学卒業後に神学校まで行きました。そうなんです。私は教会人間なんです。それはそれは教会の中で豊かに育ったのでした。

しかし・・・。気が付けば世の中のことを何も知らない無知な人間に育っていました。日曜日にはクラブ活動に出られず、地域の祭りで太鼓をたたけば叱られたりと、あたかも教会は善でそれ以外は悪であるかのような育てられ方をしました。社会の仕事ではなく教会の仕事をすれば天国へ行けると言われていました。そうなんです。世の中のことは知らない方がよかったのです。悪に染まらないためです。しかし感じていました。教会の中にこそ醜い人間関係の争いがあるってことを。そしてそれをじっと我慢して耐え犠牲をささげることが最大の美とされていました・・・。

でもこれらはみな懐かしい私の思い出話です。

私たち信仰を持つ一人一人は教会という人格の構成メンバーですね。教会という人格は「隣人を愛する」という使命を実現してゆくのですね。構成メンバーが教会という組織に自分自身のサービスを求めるのではなくて、教会という人格の一部として隣人に向けてサービスをしてゆくのですね。「二人三人集まる所に私はいる」と神様も仰っているのだからなんと力強いことでしょう。おまけにこれからは小教区の枠を越えてブロックとなると仲間も増える。今まで以上に勇気も湧く。社会活動委員会なんてものができましたけど、それは教会そのもののことだったんですね。そう思ったとき私は救われました。

これならこれからも教会人間で生きたいです。教会に関われば関わるほど世の中のことが分かってくるのですから。そして福音宣教をする喜びが持てるのですから。

神田裕
神戸中ブロック (2002/04)

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楽しい食卓を囲みませんか?

大阪教区のみなさま、こんにちは。シナピスがスタートしました。これからよろしくお願いします。すでにお伝えしていますように、シナピス教区センターはこれまでの正義と平和協議会、カリタス大阪、国際協力委員会、平和の手が一つになったセンターです。別の言い方をすると家族になったと言えば良いのかも知れません。

家族の中にはお父さんとお母さん、そして息子と娘が一緒に住んでいます。それぞれがそれぞれの場で活躍しています。

お父さんは毎日仕事で会社に出かけます。会社は商品を売るためにあらゆる手段を使って取り組みます。しかし会社という大きな組織の中で仲間たちの一人の人間としての存在が脅かされていることに気が付きました。いくら利益のためとはいえ納得できません。日常の業務をこなしながらもどうやったらいいかを知恵を出して考えます。そのためには世の中の動きも鋭く察知しなければなりません。法律や社会の規則などもよく勉強して何が正義で何が間違っていることなのかを見分けなければなりません。他にも同じ事を思っている人たちがいました。彼らとも力を合わせて一緒に考えたりもします。アフターファイブのお付き合いも大切なことだと考え忙しい毎日を送っています。

お母さんは少し内職などもこなしながら、ご近所のおばさんたちと子育ての立ち話。また一緒に地域活動にも励んでいます。地域に住む老人たちの世話や障害を持っている人たちとの関わりを通して何か生きがいを見つけようとしてきました。子どもの学校のバザーのお手伝いをしたり、時間を見つけて習い事なんかもやっています。

息子は高校へ通っています。毎日勉強してクラブ活動もしています。彼は自分の通っている学校に外国人の仲間が多いことは知っていました。最初は特に気にも留めなかったのですが、ある時一緒にクラブ活動をしている外国人の友人から悩みの相談を受けました。生活が大変だったのです。考えても見なかったことでした。それ以来彼はその友人のそばにいようと思いました。

娘は大学へ通っています。大学のゼミで世界の情勢を少しずつ勉強することができました。そしてゼミの先生と一緒に具体的にプロジェクトを立てて取り組みをすることになりました。日本の国以外でのことに目を向けるいいチャンスを貰っています。

このようにそれぞれがそれぞれの場で問題を感じ、信仰の目を通してどうしたら良いかを仲間たちと一緒に考えてきました。しかし足りなかったことがありました。それはそれぞれがあまりにも忙しくて家族で一緒に話しをする時間がなかったことでした。お互いがしていることも知らないでいました。時には家族の無理解に愕然とすることもありました。そしてこのことが大きな問題だと気がつきました。

家族会議を何回も開いてきました。家族とは何かを話し合ってきました。そしてようやく家族としてそれぞれが関わっていることを共有してゆく必要性を理解しました。すでに蒔かれていたシナピス(からし種)を一緒に育ててゆく約束をしました。簡単に言えば、一緒に夕食のテーブルを囲み楽しく語らう時間を大切にしようということでした。

そしてこの度、「新しいぶどう酒を新しい皮袋に」入れることにしました。大阪教区家族のみなさん、一緒に新しいぶどう酒を飲みながら楽しい食卓を囲みませんか!

2002/04
シナピス教区センター
神田裕

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ネパールで見たものは・・・

阪神淡路大震災からこの1月17日で丸7年を迎えました。町の見栄えは大分よくなりましたが、決してすべて復興したわけではありません。ちょっと奥へ入ればまだまだ色んな形で傷跡が残っています。私が所属する鷹取教会もまだまだ仮設のままで、聖堂もペーパードームと呼ばれるテントのままです。町が復興するまで教会は建てないと歩んできたからです。

地震が起こって半年ほどしたときに、「いつまで教会は騒々しいんだ。早く聖堂を建てよう。静かに祈る場所がほしいから」と言う人がいて困ったのですが、私はすかさず「静かに祈りたければあの山の上で祈ればいい」などと言ってしまいました。

そう言ったからと言うわけではありませんが、震災後、月に一度ミサが終わった後、何人かで六甲山を登り始めました。なぜ山に上るのかは自分でもわかりませんが、下界では見えないものが見えるかもしれないと思ったからかもしれません。

山登りのメンバーは近所の人やNGOのメンバーも加わったりしました。時々山に登ることで、ともすれば震災後の非日常生活の中で忘れてしまいそうになるものを取り戻すことができたものでした。

六甲山を自己回復?の場にしてきた私たちはこともあろうになんとネパールの山を登ろうということになりました。世界最高峰のエベレストを見に行こうということになったのです。少しでも高い山に登れば神にでも近づけると思ったのでしょうか。とんでもないことですがこれも出会いがあってのことでした。

去年の11月に実現しました。ルクラという町からナムチェと言う町までひたすら歩き、とうとうエベレストをこの目で見ることができました。静かな心で【神を思う】ことができたように感じました。

感動に浸りながらそのあと首都カトマンズへ戻ってきました。山の静けさとは打って変わってここは人々がごった返す騒音と誇りの街でした。ヒンズー教や仏教の寺院が街の至る所にありました。偶然にもガイドのヒンズー教の青年がカトリックの修道院を案内してくれました。彼が修道女達の活動に共感して自分の土地を提供しているところでした。あのマザーテレサの修道会です。孤児院をしていました。貧しくて騒々しい街カトマンズ。静かに【神を思う】ことはできませんでしたが、人々の生きる姿や目を見てメンバーはひとりひとり【神を見た】ように感じました。山登りの目的でネパール入りした私たちは思いもかけずカトマンズの街で元気をもらって帰ってきました。

神戸に帰ってきました。教会がこの街でやらなければならないことはまだまだたくさんあります。教会の中に【神を思う】山を作る必要はないでしょう。疲れたら六甲山に登ればいい。今年はこの街で【神に出会う】ことができるでしょうか。

震災8年目がスタートしました。

神田裕
カリタス・ジャパン1月号巻頭言(2002/01)

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台湾地震支援

去年の11月に台湾へ行ってきました。カリタス大阪で集められた台湾地震の支援金を現地で有効に使ってもらうためです。

経緯はこうです。1999年9月21日に台湾で大地震がありました。同じように地震の被害を受けた神戸のNGOもいくつかプロジェクトを組んで支援活動を展開しました。たかとり救援基地にあるFMYYも台湾地震の多言語情報をインターネットを通じて流しました。一昨年の12月に、現地で活動をしている台湾の支援チームが神戸に視察にきました。鷹取にも来られ交流を持つことが出来ました。そのことがきっかけでカリタス大阪が集めた支援金をそのチームの活動に当ててもらうことになりました。

そのチームはNGO的な活動をしていますが、バックボーンは台湾基督長老教会というプロテスタントの教団でした。この台湾基督長老教会は台湾では最大のキリスト教会で全国に人口(約2,300万人)の3%の信者数を抱えており、教会の数も1、230ほどあります。そして今回、震災後の神戸での動きも紹介しながら活動の交流をはかるということになったのです。

「台湾基督長老教会921地域復興ケア事業」と名をうって活動を続けています。4年の計画で支援活動を展開していくようです。現在被災地に17個所の地域復興ケアセンターがあります。正式なスタッフは60名。政府から11ヶ月分の人件費が出て臨時のスタッフが40名。ほとんどは若い人たちで比較的女性が多いです。被害が大きかったのは台湾の中ほどの南投県(台中)というところです。カリタス大阪からの援助金はその中の集集(Chichi)というところのケアセンターの事業に当てられています。被災者達の生活支援を展開しています。

初日は台湾基督長老教会の幹部の人たち(牧師&長老)とケアーセンターで働く人たちとの座談会でした。午前中は私が阪神大震災での神戸での話をし、午後は幹部の人たちと実際に働いている人たちとの話し合いがありました。教会という組織と現場とのズレがやはりあるようで活発な意見が交わされていました。教会という枠を越えて地域と関わることの是非が問われていました。

被災地では他に9つのグループが今も活動を展開しているそうです。ここはそのひとつ。ここが建てた120世帯分の仮設住宅は今もそのままだそうです。神戸のような都市型の被害とは少し様子が違います。もともと貧しい村が被害に遭いました。生活の再建そのものが大きな課題です。

話は変わりますが、台湾を車で走っていると2畳ほどのガラス張りのスペースにキラキラとネオンが光り中に若い女の人がいる小屋があちこちで見かけます。台中ではほとんど100mおきぐらいにありました。何をしているかというとビンロウというものを売っているのです。それは木の実です。これを噛みつづけると覚醒作用があるそうで長距離運転手たちがよく購入するそうです。元々は原住民の人たちの嗜好品だったようです。

私も一つ食べてみました。どんぐりの少し大き目の実に何か白いものを中につけて売っています。それを口に入れガムのように噛みつづけます。汁が出てくればそれを吐き出します。苦い感じでしたが何回かしていると止めれなくなるそうです。ちょっとした麻薬のようなものでしょうか?

このビンロウという木の実が多く取れるのが南投県の辺りです。二日目に行った中寮郷という所にもその木(ココナツの木の様)がたくさんありました。そしてそれを加工するためにたくさんの女性やお年寄り達がいたるところで働いていました。被災地の人たちの重要な収入源のようです。

しかしこれは体に良くはありません。それと、もともとの森林を伐採してこの木を植えることによって度々台風の被害がよくあるこの辺りで水はけが悪くなり被害が増大しているという問題もあります。台湾としては頭の痛い問題の一つのようです。

災害支援という関わりから多くの出会いが生まれました。そして隣の国台湾の素顔をも垣間見ることもできました。被害にあった人々への、みなさまのあたたかい心は、形をなし、今台湾で実際に活動されている人たちのもとへと飛んでいきました。しかしこれは終わりではなく始まりであることをも実感しました。

神田裕
カリタス大阪報告原稿(2002/01)

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何を待ちますか?

何週間から前から教会の敷地内の東屋にごみやタバコの吸殻がやたら散らかっているのが気になっていました。しばらく様子を見ているとそのワケがわかりました。夜な夜な近所の高校生らしき若者達がこっそりひっそりと教会の中でたむろしてたのです。

かなんなぁ。難儀やなぁ。気安く教会を出入りしてくれるのはいいがタバコを吸ってたむろされてはたまらない。注意して追い出そうか。どうしようか。相手は茶ぱつや金髪にピアス。おまけに体もデカイ。勇気がいる。

でも思い切って声をかけてみた。そしたら「おっちゃん誰や」と言われてナメられました。1回戦敗退。しばらく様子を見てまた「タバコは吸うな」と言ってみた。「はいはい」と言って簡単にカワされました。2回戦失敗。またしばらく様子を見て今度は昨晩に残していった彼らの散らかしたゴミやタバコの吸殻を集めて彼らの前に投げつけ「おまえらナメとんか」と思わず大きな声で怒鳴ってしまいました。どうしよう。カカッテクルかなぁ。・・・と思ったら、タバコを吸っていた彼らの手がピタッと止まった。「今日は出て行け。1週間立ち入り禁止や。1週間後にもう一回ここへ来い。そして話ししょ」と続けざまに言ってみた。私自身、本音を言うと「もう来んでもええ」と思っているのに、なぜか口から出てきた言葉は「1週間後にもう一度ここへ来い」だった。彼らは大人しく教会から出て行った。

それから1週間待ちました。「彼らちゃんと来るやろか」「もうけぇへんのとちゃうかな」とか何とか、気になって仕方がなかった。「来てくれるな」という思いはもうなくなり、彼らが来ることをいつの間にか待っていました。「何でこうなってしもたんやろ」とふと考えてみました。それは・・・彼らの目を見たからでした。たちの悪い不良たちの目はよくみると純粋な子供の目をしていました。

1週間後に彼らは来ました。とてもうれしかったです。待ったかいがありました。話をしました。教会でたむろしたかったらボランティア・クラブを作れといいました。そしたら彼らは「ヒマジン・クラブ」という名前を付けました。中身はこれからです。

21世紀の始まりに神戸は震災7年目を迎えます。これまで大人たちが乗り越えてきた「まちづくり」は彼らが引き継いでくれなあかんのです。祈るような気持ちです。

もうすぐクリスマス。キリストの誕生をひたすら待つ待降節。ところであなたは何を待ちますか?

神田裕
テレフォン・サービス (2000/12)

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ジグソーパズル

みなさん、こんにちは。お元気ですか?広報委員会から原稿の依頼がありました。ハッとして気が付けばシャロームに投稿するのは9年半ぶりなんですね。ビックリ!みなさんと時と場所をともにしていたときからもう10年もたってしまったのですね。ここ鷹取での10年もいろんなことあったけど、玉造でのたった1年も色濃かったなぁ。実はこの10年よりもしんどい1年でした。

覚えています?一度説教の時に説教ができないと言った時のこと。もう大変。そういう説教だったのに後でえらい説教されました。ちょうど3年目だったんですね。そうそう、1年かけてみんなで作った大きなジグソーパズル。今でもあるのかな。聖書の勉強会が終わった後なんかにみんなで作りましたね。パズルのひとつひとつ、その時に何を悩んでいたか今でも覚えています。そして完成しました。嬉しかった。完成することによって3年目を乗り越えることができました。ひとりでは完成しなかったよ、きっと。完成しなかったら鷹取での10年もなかったよ、ほんと。

鷹取でも震災直後に玉造でのことを思い出してもう一度ジグソーパズル作りに加わることにしました。今度はもっと大きいまちづくりパズルです。今度はちょっと手強い。何せ完成図が入っていないのです。おまけにパズルのひとつひとつが時々勝手に形を変えてしまう。質の悪いことに他のパズルを弾き飛ばすパズルもいる。そしてもっと質が悪いことがある。それは自分もパズルの一つやということ。これはかなん。ひとごとで言うてられへん。悲しくて涙したこと...辛くて逃げたかったこと...悔しくてからだが震えたこと...嬉しくてこころが震えたこと...楽しくて生きててよかったと...などなど。ひとつひとつのパズルは生きとる。だからもっと楽しい。

そういえば最近、教会もジグソーパズルを始めましたね。今まで大昔に描かれた絵を鑑賞するだけやったけど、その絵も時代に合わずにバラバラになってきてた。絵を描きなおす必要はない。完成図は神さまの心の中にある。だから祈りながら神さまの完成図を参考にしながらみんなで力を合わせてこの時代にそして次の時代に生きれる絵に組み直すんやね。新生計画も集会祭儀も新しい時代に向けての挑戦ですね。

私にジグソーパズルの喜びと楽しさを教えてくれたのは玉造でしたよ。また一緒にジグソーパズルに挑戦しましょうよ。

神田裕
玉造教会シャローム8月号(2000/08)

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被災地のボランティア活動

NGO(市民活動)が少しずつ力(夢)をつけてきたと思ったけど、やっぱりちゃうなぁ。GO(行政)も信用なんてしてへんし、育てようとも思うてへん。便利に利用するだけや。NGO(ボランティア)の言いなりにならんようにとあたかも言いたそうや。震災で失いかけた力(威信)を取り戻すことがどうも仕事のようや。大人の関係には程遠い。もしかしたらこっちもへたするとGO(権力)と一緒にするのが力(継続)やと思てたのかもな。違うわなぁ。もっと力(体力)をつけなナァ。NGO(心)がすたれんために…。

と、ついつい愚痴をこぼしてしまう今日この頃だ。

震災後、被災地でよく活躍したのはボランティア(NGO)だった。確かに一人ひとりの優しさが被災地を勇気づけてきたことは誰も否めないことだ。行政(GO)もそのことはよく知っているはず。でも、よう育たないし、よう育てない。管理下になければ支援できない、といったところか。NGOがまだ幼いのか、それともGOのプライドが邪魔するのか、信頼関係ができるのはまだまだ先のことのようだ。ボランティア(NGO)はあの時のことであって、日常へはなかなか引き継がれては行かない。育ち方が見つけられない。

被災地内のボランティア団体(NGO)のひとつに「たかとり救援基地」がある。震災時に駆けつけて来たボランティアの人たちによって作られてきた。今現在は「コミュニティーFM放送局・FMわぃわぃ」「神戸アジアタウン推進協議会」「神戸定住外国人支援センター」「アジア女性自立プロジェクト」「パストラルセンターたかとり」などの各団体が同じ敷地内で活動を続けている。ここもこれからの育ち方が大きな課題だ。

震災5年目の今年、その第一歩としてNPOで法人格をとり、「救援基地」は「たかとりコミュニティーセンター」となる。今のところ法人格を取ったところで、育ち方に大きな進展が生まれるわけではないが、大事なことがひとつある。それは法人の構成メンバーだ。各NGO団体、地元地域まちづくり、地元の外国人学校、教会など。内容は「NGOを育てるNPO」をつくるということになる。具体的なことは見えてこないが、気持ちだけは一歩進んだようだ。

現代社会にとってあらゆる分野でますます必要とされるボランティア(NGO)。本当の意味での生きることの豊かさを生み出して行くこの大事な要素をこの社会がどう育てて行くかによって21世紀が創られてゆく。

GOだけでは豊かな社会は育たないのとちゃいますか。

神田裕
朝日21関西スクエア(1999/05)

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見にけぇへんの・神戸…21世紀へのかけ橋…

アッと言う間の出来事だった。神戸は大地震に襲われた。ほんの一瞬が多くのいのちを吸い込み、大切なものを奪い去った。嘆き悲しみと悔しさのどん底に叩き落された。そしてそこには絶望しかないと思っていた。

しかしそれは違っていた。人々は不思議な体験をした。こんなに破壊され毎日瓦礫の山を見て暮らしていたのに、なぜかしら心がやさしくなっていた。お互い声を掛け合うことが何のためらいもなくできた。まちづくりの第一歩がはじまっていた。

「まちづくりはダチづくり」が合言葉だった。ダチには国籍や宗教、文化や習慣の違いの壁はなくなっていた。まだ見ぬまちをひたすら創りはじめた。地震は古い価値観を滅ぼし、新しい価値観を生み出しはじめた。

がむしゃらに走ってきた3年。石の上にも3年というのに、それでも現実は厳しかった。不安と寂しさの中に戻ってしまい、疲れ果て、自分自身を見失いかけた4年目でもあった。
地震から5年目に入った。色んな問題や課題を残しながらも、地震以来、神戸は21世紀の未来を見て確かに歩き始めた。

来年のことを言えば鬼が笑うかもしれないが、神戸の5年間を東京へ持って行こうと思っている。題して「神戸からこんにちヮ。1.17 eve in TOKYO」。地震の中で‘21世紀の未来をちょっと見た神戸’をつたえたい。神戸を語ることは21世紀を語ることそのものだ。そんな神戸、見にけぇへんの。

神田裕
ソウル・フラワー・モノノケ・サミット機関紙(1999/2)
cf:「神戸からこんにちヮ。1.17 eve in TOKYO」は実現しなかったです。

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シン・チャオ・カック・バン!

シン・チャオ・カック・バン!(こんにちは)

震災後の3ヶ月。まだ傷あとも痛々しい被災地・神戸市長田区の空にベトナム語で電波が飛び立った。ミニFM局の開局である。灰色の街に小さな花がひとつ咲き、外国人との共生のまちづくりが始まった。

神戸には七百人以上の定住ベトナム人が生活していた。戦争という人災を経験し、海を渡りながら自然災害をも乗り越えてきた彼ら。しかし今度は地震という自然災害に遭い、もう一度人災を経験しなければならなくなった。

「避難場」という言葉が分からない。公園でテント生活を始める。避難場でのいやな視線に耐えられない者も後から公園へ。子沢山なベトナム人も多く、遠慮してまた公園へ。「ベトナム人はそこに居着くのではないか」と神経を尖らし圧力をかける行政。「ベトナム人にやる水は無い」「食料を何処で盗んで来たんだ」「火をつけ回っているぞ」と非人間的な言葉を浴びせる住民。国籍が違えば人格は無くなるのだろうか。

ちょうど1年後、ミニFM局はコミュニティーFM放送局として正式開局をする。今度は8言語でのまちづくりが始まった。またそれと同時にボランタリーな日本語教室プロジェクトも本格化してきた。

被災地は仮設住宅での生活が始まった。家族の多いベトナム人たちは数人で一つの仮設住宅だった。声が大きく大らかで陽気なベトナム人たちは薄壁一枚での生活が隣人とのトラブルを招いた。「やっぱり公園がいい」と戻る者もいた。

2年たち、今度は街の標識の多言語化プロジェクトが始まった。避難場、病院などが何処にあるのか住民の誰もが知っていてほしい。そんなまちづくりも始まった。病院内や役所内の案内表示の多言語化も呼びかけが始まった。

その頃、「ベトナム料理は臭い。迷惑だ。日本の料理を食べろ」と怒鳴る人まで出てきた。言葉は少しずつ学ぶことはできても身についた生活習慣や文化は変えることはできない。共有してこそ豊かな街ができてゆく。ほんとうの国際都市はここに魅力がある。観光や外交だけで国際都市にはなり得ない。。

3年がたち、神戸の祭りには少しずつ外国料理の屋台が並ぶようになってきた。地道なプロジェクトだ。神戸に住む外国籍の人たちが自信を持って自分たちの文化を伝える場が少しずつだが出来てきた。ベトナム料理などもファンが出来てきた。これから何年たてば祭りから日常へとなってゆくのだろう。

もうすぐ4年を迎える。能力があっても適切な仕事に就けない。不況の煽りだけの問題ではない。民間住宅の外国人お断りの入居拒否は後を絶たない。何にも変わらない。ただ地震以後、みんな夢だけは捨てなくなった。

今日、ベトナムから2台の乗り物が救援基地に届いた。もうすぐ神戸の街にシクロ(ベトナム式人力車)が姿を表すことになる。

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異国情緒あふれる地域社会へ

異国情緒あふれる観光都市として名高い神戸。昔からたくさんの外国人が住み、まさに国際色豊かな街として歩んできた。そして外交、貿易など港町として発展してきたこの街は国際都市とも呼ばれてきた。

そんな神戸を自然は襲った。阪神淡路大震災である。ほんの僅か十数秒の地の揺れが神戸の街を破壊した。お洒落な街は一瞬の内に瓦礫の街へと化してしまった。多くの人が犠牲になった。家を無くした人々も数えられない。日本人も外国人も皆同じように被害にあった。地震の被害には国籍の差はなかった。でもそれは本当かな。

震災にあったその日、人々は避難場へ逃げ込んだ。しかし避難場という言葉が分からずウロウロする外国人の姿があった。標識も漢字での表記だけなので読めなかった。行政から出される大切な情報もすべて日本語だった。日本に住んでいるのにどうして日本語ができないのかと平気で言う災害担当官もいた。仲間が集まって食べ物を分け合っていたら、それをどこから盗んだんだと言われた外国人たちがいた。外国人が被災地で火を付けてまわっていると言うデマも一時あった。

このような外国人に対する偏見は震災後4年目を迎えた今でも変わらない。と言うより震災以前からの問題がそのまま残っていると考えた方がいい。外国人たちと共に復興の景気付けにと短期の屋台村を計画した時にも治安が悪くなると地元に反対された。自力で民間の住宅に入ろうとしても外国人お断りの入居拒否はあとを絶たない。職業安定所での就職斡旋は外国人には皆無に等しい。国際都市と名がつく神戸であってもここは外国人にとってはとても住みにくいところだと震災後あらためて知った。

地域社会における問題だけでなくもっと大切な生命に関する問題もある。国は医療に関しては健康保険で対応した。保険証を持っている者は一部負担金も免除され治療費などは助かった。しかし保険証を持てない短期滞在の外国人たちは地震関連での入院費をすべて自費で支払わなければならなかった。それでは災害救助法でと思うがそれもダメ。救護所の設置が間に合わず直接病院へ駆けつけた者は対象にならないらしい。何の為の災害救助法なのか。また長年神戸に住んでいてもビザの期限が少しでも過ぎていれば死亡した者への弔慰金も出なかった。税金は同じように払っているのに生命の保証はされていない。

そんな中、外国人たちの支援をしようと集まってきた仲間たちがいた。もちろん多国籍。そして新しい動きが始まった。「被災ベトナム人救援連絡会(現在:神戸定住外国人支援センター)」は震災後にできた最初の動きで、外国人への震災情報の伝達を主な活動内容とした。そしてその活動の中から今度は電波に乗せて情報伝達をとコミュニティーFM放送局「FMわいわい」が誕生し多言語で神戸の街にメッセージを送っている。「NGO外国人救援ネット」は震災時に発生した外国人の医療費の問題から始まり、今は電話ホットラインで外国人の生活相談窓口を開いている。以上これらはソフト面での支援活動である。「神戸アジアタウン推進協議会」はハード面の支援活動を目指す。アジアの人たちが多い神戸・長田をアジアの街にしようと活動する。街の案内板を多言語標示にするプロジェクトもその一つだ。

このように見てみると震災後にできた外国人支援のネットワークは4年目に入り「救援」から<まちづくり>へと移り変わっている。外国人が直面するさまざまな問題は「かわいそうな外国人への手助け」ではなく、同じ市民として共につくりあげてゆく多文化共生の<まちづくり>を通して初めて解決の糸口が見つけられる。違いを共有することは豊かさを生むことだ。外国人と共に同じ仲間として暮らして行くことによって成長した豊かな社会を築くことができる。そこにはもう外国人という言葉はいらない。

異国情緒あふれる観光都市は異国情緒あふれる地域社会となって始めて国際都市となる。自然災害である地震には負けたけど、新しいものを創り出して行くことによって地震に勝ってゆきたいと思う。

神田裕
朝日新聞・論壇 (1998/04/21)

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宗教者による神戸メッセージ

震災からちょうど3年に当たる1998年1月17日に神戸から一つのメッセージが発せられた。「いのり 追悼と新生 - 宗教者による神戸メッセージ」。それは、震災後の神戸で出会った仲間との出会いそのものが作り出したメッセージだ。

《突如襲った阪神・淡路大震災は、私たちに未曾有の被害と絶望をもたらしました。犠牲になられた方々への無念は尽きることがありません。それと同時に、残された私たちの日常も苦渋に満ちたものでした。生きることの苦しさを嫌というほど味わいました。しかし私たちは、それにもめげず微かな希望に支えられて、これまで生きてきました。その希望の源になったものは何か。それは自分の隣にいる人々との出会いそのものでした》

その日はまるで悪夢でも見ているようだった。作られたものは尽く潰され、自然に対する人間の無力とこの世の儚さを知った。一瞬のうちに6千数百人もの生命が奪われ、生き残ったものたちは裸足のままで布団や毛布をまとって逃げ惑った。そんな中でも近所の人たちは生き埋めになっている者や病院のベッドの上で動けなかった者の救出を即座にしていた。それは自然な行動でした。しかしそんな自然なことさえもしなかった自分がいた。しなかったというより出来なかった。それは出会いが今までなかったからだった。教会の中でしか出会いがなかったからだ。だから動けなかった。震災後、まちづくり協議会の中に入れてもらった。少しずつ地域のことが分かってきた。自分の家づくりのことより町づくりに力を注ぐ者たちがいた。こんなにも魅力的な人々がこの地域にいたなんてことを知らなかった。今まで出会っていなかったことが残念でならなかった。

《私たちは、不思議な体験をしました.成す術が分からない、そんなさ中にもお互い助け合うことができました。優しく声をかけることもできました。そこには普段、人と人とを隔てている壁のようなものは無くなっていました。隣との壁、国籍の壁、そして宗教の壁です。お互いが助け合うという自然にできた優しさが、そんな壁をも打ち壊したのです。そこには生きるために国籍や宗教の別は必要ありませんでした。生きていることそのものがすべてでした》

すべてを失って呆然と立ち尽くす中では今を生きるのが精一杯だった。でも何故か素直になれた。優しくもなれた。食べ物や水を分け合った。家が大丈夫だった何人かの人から連絡があった。「家を失った人に一室を提供します」と。持っているものを分け合おうと自然に思えた。自分だけの物は要らないなとみんなそう思った。今まで要らない物をいっぱい持ち過ぎていたんだなということも知った。
国籍や宗教を超えての救援活動が始まった。地域の外国人が企画した炊き出しに日本人が食べにきていた。イスラム教の人たちが教会を出入りしていた。自然だった。また、動いたのは地元地域の人たちだけではなかった。全国からたくさんの人たちが駆けつけてくれた。被災地の中ではボランティアも被災者も同じだった。すべてが肩書きを捨て、一人の人間として生きていた。そこで出会った仲間は数え切れない。人生を2,3回経験したぐらいの仲間に出会ったようだ。

《しかし、それは束の間の出来事でした。時がたつにしたがって街は少しずつ復興し、それと同時に人と人とを隔てている壁も戻ってきました。家族を越え、地域を越え、国籍を越え、そして宗教を越えて声を掛け合うことが難しくなってきました。つまり普段に少しずつ戻ってきたのです》

暫くたつと、なぜ信者を優先しないのかという人もいた。教会に所属している意味がないとまで言う。「いつまで教会の中にボランティアがいるのか」と訝る人も中には出てきた。今、現実に何が起こっているのか、何が問題なのかということを被災地に居ながらも共有できない人たちがいた。
少し余裕が出てくると隣のことも気になりだした。被害の優劣の差が気になりだした。自分だけが惨めだと思い始めたりもする。僻みや嫉妬に押しつぶされそうになった。

《私たちすべての願いは地震から早<立ち直り、まちが復興することです。しかし今、復興という言葉にだんだんと取り残されてゆ<人々がいます。私たちは決してそんな仲間たちのことを忘れてはなリません。最後のー人が震災から立ち直るまで地震は終わらないからです》

三年が過ぎ去ってしまった今、街の玄関はもうほとんど地震の傷痕は残っていない。しかし、居間はまだまだだ。元居たところへ戻りたいという夢はなかなか叶わない。もしかしたらこのまま一生を終えてしまうのだろうかという不安がよぎる。仮設住宅では次の目処がたった人とまだたたない人との間で壁が出来始めた。災害復興住宅に当たらない人は悔しくて、当たった人は申し訳なくて、互いに話も出来なくなってしまった。地域型仮設で共同生活をしてきた一人暮らしの老人たちも事情が複雑だ。当たらない人よりも当たった人のほうが不安でいっぱいだ。心配で心配で夜も眠れず、しまいには入院してしまう。また孤独な一人暮らしが始まるからだ。一人一人の体と心を傷つけてしまった地震はなかなか終わらない。

《私たちは宗教者として、今一度この3年を振り返り心を合わせたいと思います。自分が責任を持つ教団の利益や信徒への奉仕にのみ留まってはいなかったか、そして世に開かれた宗教の働きを、自らの生き方として担い得たかを、問い直すことから始めなければなりません。そこからひとりひとりが壁を取り払い、優しく声をかけ合い、わかち合えるひとづくり、まちづくりを目指してその働き(教化や布教、宣教)を担ってゆかねばならないと、こころざします。さらにまちが復興し、単に普段に戻ることを願うのではなく、地震の中で体験した不思議な出来事に希望をおき、新しい世を創ってゆくことを願いそしていのります。それが宗教者としての共通の使命と考え、そのことが犠牲になちれた方々への追悼となり残された人々の新生となると固く信じるからです》

人の生きる道や人生を説く宗教教団は何をして来たのだろう。組織力を使って物を集めた。それを業績として自らを称える。ただそれだけだ。やっていることは企業となにも変わりはしない。それを配りながら、今こそ宗教は大切とばかりに宣伝や勧誘も繰り返した。「我が身を捨てて隣人を愛する」ことの出来た教団はキリスト教を含めてここには存在しなかった。いくら宗教といえども、組織は一人一人の人間に勝つことは出来ないと思った。被災者をこれまで支えてきたのは宗教や行政の組織ではなく、一人一人の隣に居る一人一人の人間だった。個々の出会いにはエネルギーがありそして夢が育って行く。組織はそれを応援するだけでいい。ところが邪魔をする。一人一人の人間を導くのが宗教教団だという幻想を持っているからそうなるのだろう。被災地で一人一人が持った優しさは宗教教団の改心(回心)へとつながるのだろうか。それがなければ新しい世は創られて行きはしない。

《市民の皆さん、宗教を持つことは、一人一人の生き方が分けへだてられるのではなく、宗教の壁を越えて、つながり合いわかち合うことなのです。自由な選択の中で人がよりよく生きる道を探す希望の宝箱を持つことなのです。また宗教者は、そのことを教えるだけの教師ではなく、共に考え共に歩む人生の仲問です。もし宗教を持つことがー人一人の心を狭くしたり、他を排斥したり、権力や名誉に走るようなものであるならば、残念なことです。もしそうなら、それはそれぞれの宗教に携わっている私たち宗教者が、宗教による壁の中で、それぞれのしきたり等に心を奪われているところに問題があるようです。それを本来の宗教として私たちは理解したくありません。私たち宗教者も完全ではありません。被災地にあって復興を創ろうとするすべての人々と共に、震災を生きる者として、私たちも一つになりたいと願います。地震に負けないで、勇気を持って新しい世を一緒につくってゆきませんか》

宗教にプライドを持ちたいと思う。宗教教団という組織に関わる私たち一人一人が、宗教を持たないで社会の悪とたたかっている人々に遅れを取らないようにしっかりと信仰を生きたいですね。

教団や教派を越えて出会った仲間は不思議だ。相手を知り、理解し、親しくなって行けば行くほど、自分が拘って信仰している宗教を自分の中でもっと大切にしようと思ってしまう。関われば関わる程それぞれが、もっと立派な宮司さんに、もっと素適なお坊さんに、もっと魅力のある牧師さんに、そしてもっと逞しい神父さんになってゆきそうだ。

神田裕
「声」誌 (1998/04)

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だちづくり

みなさん、こんにちは。私は今、神戸市長田区にある鷹取教会にいます。去年の1月17日に大震災で潰れて燃えてしまった教会です。教会の建物は無くなってしまいましたが、はじめて教会になったように思いました。なぜ、そう思ったのでしょうか。

それは、教会にたくさんの人たちが毎日出入りするようになったからです。町の人たちやボランティアの人たちです。もちろん、教会の人たちもです。今まではそうではありませんでした。広い教会の敷地の中に普段人はいません。日曜日に信徒の人たちだけが利用するだけでした。なんともったいない事でしょう。出会いの場所を探している人たちはいっぱいいるというのに。

さて、集まった人たちの目的は何でしょうか。それは‘まちづくり’です。じゃ、どんな‘まちづくり’をしようとしているのでしょうか。それは、一言でいうと‘ともだちづくり’です。

‘まち’にはいろんな人たちが住んでいます。でも普段はあまり出会いがありません。ここの教会がある‘まち’にはお年寄がたくさんいます。外国人もたくさんいます。そして、障害を持った人たちもいます。でも、普段は‘まち’の中であまり出会うことがありません。出会いがなければ、‘ともだち’にもなれません。‘ともだち’になれなかったら、‘まちづくり’なんてできません。

教会が「まちづくり」の為の出会いの場となる。‘まち’の中で忘れ去られてしまっている人たちと出会っていく。信徒でなくても同じ目的を持つ人たちも集まる所。それが本来の教会ではないでしょうか。

それを教会で使っている言葉でいうと、福音宣教であり、神の国の建設です。教会に日曜日ミサに来る信徒の人たちにとって教会は信仰の道しるべです。それぞれの家庭や個人が、自分が住んでいる所で‘ともだちづくり’をとおして‘まちづくり’に働きかける中で、信仰を持つ喜びが生まれるのではないでしょうか。

神田裕
テレフォン・サービス (1996/11/16)

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地震に打ち勝ってゆきたい

あの地震はたくさんのものを奪い去ってゆきました。家や財産、親しかった家族や友人、そして希望や夢をです。しかし、大切なことも発見することができました。今まで知りませんでした。こんなにもたくさんの仲間が私たちのまわりにいるということを。孤独な私たちに少し勇気を与えてくれました。これからもその友情をたよりに長い旅を続けてゆきたいです。見たことのない未来を切り開くことによって地震に打ち勝ってゆきたいです。

神田裕
神戸新聞掲載(1995/12)

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生き返らない猫

ひとつの絵本を紹介しよう。

「 100万年も_しなない_ねこが_いました。_100万回も_しんで、_100万回も_生きたのです」という書き出しで始まる。あるときは王様の、あるときは船乗りの、あるときはサーカスの手品使いの、あるときは泥棒の、あるときは独りぼっちのお婆さんの、あるときは小さな女の子の、猫だった。「ねこは_しぬのなんか_へいきだったのです」。

あるとき猫は誰の猫でもなく、はじめて自分の猫になった。多くの雌猫がプロポーズするが、見向きもしない。「ねこは、_だれよりも_自分が_すきだったのです」。

あるとき猫に見向きもしない白い美しい雌猫がいた。気を引こうとするがダメ。とうとう猫は言った。「『そばに_いても_いいかい』」。

子猫がたくさん生まれ、大きく育って巣立ち、年老いた二匹はとても満足。「ねこは、_白い_ねこと_いっしょに、_いつまでも_生きていたいと_思いました」。

ある日、白い猫は死んだ。猫は初めて泣いた。泣いて泣いて泣き止んで、猫は白い猫の隣で静かに動かなくなった。「ねこは_もう、_けっして_生きかえりませんでした」。

* 参照 「100万回生きたねこ」 佐野洋子(講談社)

             ☆  ☆  ☆

何で生きているんだろう、何で死ぬんだろうなんてことはよく考える。生きているから死ぬんで、死ぬとは生きている証拠。死ぬことがないとは生きていないこと。分かったようで分かっていないことをとやかく考える。死の奥義なんて難しいことはよく分からないが、ただ一つだけ何となく思う。生きて充分に「隣猫(人)を愛する」ことができれば、今の世に執着することもなく、永遠の生命に入れることを。

神田裕
声誌巻頭言 (1994/11)

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お母さんの心

みずみずしい若葉がいっぱいのこの五月はなぜか聖母マリアの月とされています。理由はともかく母の日を迎えることでもあるし、お母さんのことをちょっと考えてみましょう。

赤ちゃんの誕生を迎えた家族は幸せいっぱい、希望に満ち満ちている。お母さんは思う。「りっぱに成長しますように」・・・・ところがそれは苦難の始まりでもあります。

夜泣きがあまりにひどいので、薄壁一枚の隣から文句を言われ、自分も泣きべそをかいてしまう若いお母さん。

喧嘩して怪我をさせてしまった子どもの家へ、ただただ誤りに行くお母さん。お前のしつけがなってないからだと、なぜかお父さんに叱られるお母さん。

お宅の子供さんは絵が上手ですが、この象の色がピンクなので良くないんですと学校の先生に言われ、この子はピンクが好きだからいいんですと頑張るお母さん。

女の子の部屋を覗いたからと学校に呼び出されたとき、息子が男の子であることが証明されましたと、豪快にも言い放ったお母さん。

中学でいじめられて学校へ行かなくなり、高校へ行ってもいじめられて学校をやめ、仕事をしだしてまたいじめられ、この一年程家に閉じこもりっぱなしの息子をかかえ苦しんでいるお母さん。

でも、そんなに苦労して育てた子どももみんないつかは離れ、一人で人生を歩み始める。お母さん。それは嬉しいことですか。悲しいことですか。

イエスの母マリアも、形は違うにしろ、子を思う気持ちは同じだったでしょう。自分の手元から離れて行動する子どものことが心配で仕方なかったでしょう。でも、その子の成長をじっと見守り、すべて心に納めていました。そして最後まで子供と共に生きました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と祈りながら。

神田裕
声誌巻頭言 (1992/05)

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ムダな時間よ、永遠に!

夏から秋へ季節がうつってゆく。思えば今年の夏は暑かった。各地で記録を更新していった。夜寝る時もクーラーのスイッチをなかなか切ることのできない日が続いた。こんな暑い日にどうして仕事なんかせなあかんねんとブツブツ文句を言ってたのは、わたしだけだっただろうか。そういうことを考えていると夏はあまり歓迎されない季節かもしれない。でも、子供たちにとってはそうではないようだ。

今年も教会のキャンプがあった。海だ。よい天気に恵まれた。キャンプは暑ければ暑い方がいい。ひろ~い海の中でおもいっきり遊んでいる真っ黒な子どもたち。勉強のことなんかすっかり忘れている。そして、子どもたちを見守っている真っ赤なリーダーたち。体はヒリヒリするけれど、元気な子供たちを見ててとても満足だ。子どももリーダーもまた一つ大きくなったことだろう。夏は草木だけでなく人間ものばしてくれる。

そんな夏をムダにしている人がいる。いや、立場を変えると、そんな夏がムダなのだ。たくさんの時間がまとめてとれる夏にこそ、集中して勉強しなければならないのだ。たった2、3日のキャンプもムダという。一日勉強の手を休めると一週間は何も手につかないからだという。現実社会のことをよく知っている(?)親たちが愛情を持って(?)子どもたちに今の社会の厳しさを教えようとする。でも、いったい何の社会の厳しさなのか。

世の中、益々合理的になっている。時間を節約し、有効に利用する。それはとてもいいことだ。しかし、「ムダな時間」を少しでも多く取るためのものであるかぎりにおいてである。「ムダな時間」がなくなれば、人に出会うことも、ましてや神さまに出会うこともなくなってしまうのではないかしら。

神田裕
玉造教会シャローム(1990/09)

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